自分の顔にもスタイルにも頓着のない犬は、くしゃ、と笑い皺を寄せてどうしようもなく愛らしい笑顔になった。
朝っぱらからこんなに人をうずうずさせて、どうしてくれようこの男。
「高耶さん?」
また頬をぐりぐりしてやりたいところだが、とりあえず髪を一撫でして収めておいた。
柔らかい茶色の髪はするりと指の間を抜けて、端正な額に降りかかる。休日だから整髪料で固めることなく流してある髪形は、ヤツを年相応の若い青年に戻していて、オヤジというよりは兄貴だなあと思わせた。たまに公園へ連れて行ってくれたり宿題の面倒を見てくれたり。そういう優しい近所のお兄さん。
いや、それじゃあ全然色気がないじゃないか。ただの近所のお兄さんじゃあ。普通そこから恋は生まれない。
「うーん」
「どうかしたんですか?」
かじりかけのサンドイッチを片手に唸り出したオレに直江は心配そうな眼差しになる。
「別に、サンドイッチの味がどうこうってことじゃないからな」
たぶんそっちを懸念しているであろう男のために訂正を入れておく。ヤツは安心して笑うかと思ったが、案に反して真顔のままだった。
「高耶さん」
直江はスプーンを皿に戻して、居住まいを正した。
「何?」
「何か悩み事でも?」
じっとこちらを見つめる瞳は真剣そのものだ。
「……」
「そんなに深刻なんですか」
「……違えよ。なんでおまえはそう悪い方向に考えるかな。オレが溜め息つくたびにそんな深刻なこと考えるのか?」
「あなたのことならこの上なく深刻です」
揶揄するように問いかけても男は真顔だ。きれいな茶色の瞳がまっすぐに覗き込んでくる様子は主を心配する犬そのものだ。
オレに何かあったらこいつは飯も食わずに死んでしまうのではないだろうか。
「ああ……馬鹿」
食べかけのロールサンドを皿に置いて立ち上がったオレに、ヤツは視線を固定したまま、その動きを目で追った。その目の前まで歩いてゆき、一歩手前で足を止める。
「やっぱり兄弟じゃ、何も始まらねーよ。それだけだ」
椅子に掛けているからちょうどいい高さにあるヤツの茶色い頭を抱き寄せて、額をくっつける。そうして頬に指を滑らせ……
むにっとつまみ上げた。
「た、たはやはん、いはいれす」
男は情けない顔になって笑った。
「痛いようにつまんでるんだよ。ほらほら」
ヤツは頬をひっぱられたり戻されたりして目を白黒させている。
「笑えよ。もっと笑えよ」
ずっとこうして一緒に笑っていよう。
優しくて寂しがりやの大きな犬と二人、いつまでも。
「……じゃ、飯済ませるか」
朝食を放ったらかしでじゃれあっていたことを思い出して、少年が手を離した。朝っぱらから問答してしまったことに少し照れながら、屈んでいた姿勢を元に戻すと、男の腕が伸ばされて、離れることを拒まれた。
腹のあたりに顔を押し付けられ、縋るように背を抱きしめられて、少年は相手のつむじに視線を落とす。
「直江?」
「愛しています」
「……」
くぐもった声の意味を解して、少年は言葉を忘れる。
あまりにも直裁に、初めて紡がれたその言葉。
「あなたを愛しています」
だからずっと傍に。
「直江……」
少年は自分の腹に額を押し付けたままの男の髪に手をやり、柔らかい茶色に指を滑り込ませた。
男がなぜだか泣いているんじゃないかと思えて。毛づくろいをするように優しく髪を梳いてやる。
「何だよ。いきなり」
「……すみません、いきなりで。でも言っておきたくて」
男は少年の腹から顔を離して、しかし俯いたままで呟いた。
「直江……?」
男の髪を梳く動作を止めて、少年は言葉の続きを待っている。
男はゆっくりと顔を上げて、不思議そうに瞬いている黒い瞳に近づいていった。
掬い上げるようにして息を奪う。ただそっと塞ぐだけで、逃げ場を無くした幸せは体の中に満ちてゆく。あとからあとから溢れ出すそれはとどまることを知らず、ただひたすらに満ちてゆく。
僅かな合間にこぼれ落ちるのは更なる恍惚の息吹。
約束のくちづけは長いようで短かったのかもしれない。
何気ない毎日はこんなふうに始まった。
あの日、あの朝に響いた幸福の音がやがて日常になったように、この幸福な呼吸も毎日を作る大切な要素になるのだろう。
二人繋いだ手を、二度とは離さない。
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