彼女と
    わたしと
あなたを
       渡る

    桜花











 また相手を煽ってしまったかもしれない。チューしたくなったからそうしたら、ヤツはむぎゅ、と背中を抱き寄せて離してくれなくなった。
 逃げられない状況で、時間を忘れて触れ合っていた。

 どのくらいの間、そうしていたのだろう。意識が体から抜け出て、ふわふわと風に乗ってさまようような覚束ない感覚の下、同じように風になった直江の気配だけを享受していた。境目が無いほどに柔らかな存在になった互いを、ゆるくきつく混じり合わせる。

 ここはどこで、自分は誰で、相手との境目はどこにあるのか。何もかも柔らかく溶けて流れて、ただ日だまりにいるような心地よさを貪った。

 その温かな気配は直江のものだ。春の日差しのような優しくて心地よいオーラが全身を包み込んでいる。
 ゆるく瞼を上げればそこに、はちみつ色に溶けた瞳が笑っている。

 いつも優しくて、少し悲しくて、少女のように繊細なその目。
 誰よりも情が深くて、雛が親を追うように全身で相手を追い求めて、けれどその相手を二度までも奪われて、花の下で一人号泣するほどに悲しい思いをしてもなお、誰かを愛することをやめない男。
 その腕が抱きしめているのはどんなゴージャスな美女でもなく、こんな細っこいただのガキなのに、なんて嬉しそうな顔をしているんだろう。なんて幸せそうに鼓動を打つのだろう。
 ―――なんていとおしそうに目を細めるのだろう。

「だいすき……」

 この瞳が、オーラが、微笑みが、この男の何もかもが、好きだ。
 いとおしいほどに。


 出会えて良かった。
 母が彼をすくい上げてくれて良かった。
 あの日あの桜の下を通って良かった。
 同じ学校で良かった。
 あの日熱を出して良かった。
 佐東先生が授業を持っている日で良かった。
 一緒に暮らそうと言って良かった。

 直江がこの世に生まれてくれて良かった。
 出会えて良かった。

 好きになってくれて……良かった。



「だいすき……なおえ」



 唇を離すのと一緒に零れ落ちた声を相手は過たず捉えたようだ。
 焦点も合わないほどの間近で、はちみつ色の瞳が見開かれるのが見えた。


「……えっ?」

 見開かれていた茶色の瞳が俄かに瞬き、もう一度開かれたときには溶けたように濡れていた。
 ゆっくりと、宝石みたいな玉が転がり落ちる。一つ、また一つと。

 そうこれは直江の心のカタチ。
 あのとき母を想って流された涙は今、自分の前に溢れている。
 綺麗で、綺麗で、憧憬と共にただ見ていたあの心のカタチ。

 今度はオレのために……?


「なおえ……」

 濡れた頬に手を這わせると、琥珀の瞳が瞬いた。潤んだ水面には少し歪んで自分が映っている。
 そこから溢れて落ちる涙は熱くて、しょっぱかった。

「直江……ずっと一緒にいような。オレはまだガキだけど、そのうちちゃんと生計立てて養ってやるから」

 止まる気配のない涙を吸い取ってやりながらその頭を抱き寄せる。

「だからずっとここにいろよな」

 こんな優しくて涙もろい犬、自分が面倒看てやらなきゃ寂しくて死んでしまう。一時だって目を離せない。

 だからずっと一緒に。



第八章

[ 彼女とわたしとあなたを渡る桜花 ]

10.05.03


直江さんハッピーバースデー!


気がつけば随分お久しぶりの「桜花」。
高耶さん無自覚のプロポーズです。オトコマエ十五歳!
二度の別れを経てとうとう本当に欲しいものを手に入れたN氏は、感極まって言葉もありません。


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(image by kai / midi by tam)