「それは……」
少年は背後から手を回して男の目を隠しているから、相手の表情を窺い知ることはできないが、彼の台詞を聞いて男が目を見張ったのが、手のひらをこする睫毛の動きでわかった。
男は驚き、そして戸惑っている。
「考えてたんだけど、おまえオレの歳気にしてるか?それで触らないようにしたのか」
少年はゆっくりと一つ瞬いて、静かに言葉を続けた。
数日間ずっと考えていたことを、相手の視界を奪ってようやく口にする。顔を見たままではとてもこんな話はできない。恥ずかしすぎて。
でも、相手の意図を読めずに不安を抱えているより、当たって砕ける方がいいから、こうして背後から目を隠して勇気を振り絞ったのだ。
「高耶さん……」
少年の手のひらを何度も睫毛がこすり、男の動揺を伝えた。男は少年のストレートな問いかけにどう答えたものかと逡巡している。そのまま肯定してしまうのは躊躇われたが、否定することもできない。
こういったことを許される間柄ではないとわかっているから、口にすることを避けてきた。
けれど相手は幼いながらもまっすぐにぶつかってくる。
「オレのこと好きじゃなくなった、ってわけじゃないんだよな?」
「まさか!あなたのことしか考えていませんよ。俺は」
確かめるように上がる語尾を、男はすぐさま否定した。勢いで目元を覆う手のひらがずれてしまいそうになるのを元に戻しながら、少年はふうんと頷く。
「じゃあやっぱり歳の差のことか」
「はい。それから立場上ね」
腹を括った男は素直に頷いた。幼い相手にここまで言わせて知らんぷりをするなど、到底許されることではない。
己の躊躇いの理由を吐露した男に、少年は大きく息を吸って最後の一歩を踏み込んだ。
「てことは、逆に言うとおまえはオレに触りたいんだな?犯罪になるようなこと、したいんだ?」
相手の逡巡に触発されたように視線を彷徨わせ、自信なさそうに声を小さくしながら、語尾だけをちょっと上げる。
沈黙の果てに、男は観念した様子で肩の力を抜いた。
「……その、すみません」
ご主人様の大事な花瓶をうっかり割ってしまった大型犬が懸命にその大きな体をちぢこませて謝意を表すのとそっくりな気配を漂わせている。
賢しい瞳にはきっと、憂いの雨が降っている。
少年はそんな大型犬の伏せられた耳に顔を寄せた。
「別に謝ることじゃないだろ。オレは……オレもおんなじだし」
殆ど消えそうな語尾に、僅かに力が籠められる。
「あのさ、だから、直江が触りたいなら……触っていいぞ」
少年は男の両目を覆っていた手を静かに離し、そのまま両腕を男の首に回して抱きしめた。
肩に額をくっつけて表情を隠している。けれど黒い髪の間から覗く耳たぶがほんのりと赤い。顔はもっと赤いのだろう。
男は想像もしなかった台詞に固まっていたが、やがてこちらも血の色を上らせた。目元や頬が匂うように色づいて、少年曰わくの『男でも惚れてしまうような』顔になっている。背後にいる少年からは見えないが。
男はそして、自分の首を抱いている少年の腕に手を触れた。
温かくて大きな手のひらが腕を撫でるのを、少年はうっとりと堪能する。
男の手のひらに触られるのはやっぱり好きだ。髪を撫でられるのも、肩をポンと叩かれるのも、こんな風にゆっくり撫でられるのも。
何か癒し系の電磁波でも出しているんじゃないかと思うくらいに、ヤツの手のひらは心地よい。
ただそこに置かれているだけで心地よい。
「ありがとう、高耶さん。じゃあ今はこうしていることにします」
男は少年の腕に手のひらを重ねて慈しむようにゆっくりと撫でた。猫ならごろごろ喉を鳴らしているような様子で、少年はその心地よさに酔いしれた。
色々な意味でささくれ立っていた心が、あっという間にほぐれてとろかされていく。失わずに済むのだという安心感と、互いを手に入れた満足感に充たされる。
「直江……マジシャンみたいだな」
「はあ?」
「直江の手、何か癒やしの電磁波出てるって。気持ちいい……」
少年は心底気持ち良さそうに溜め息をついて、それが男の首筋を柔らかく撫でていった。男はひゅつと喉を鳴らし、強く目を瞑る。その手が止まったのを不満に思って少年が顔を上げるのと、男が首を捻るのは殆ど同時のことだった。
ちょうど同じ高さにきた顔が一つの場所で重なり合う。
「俺はまだまだ大人とは言えないので、あんまり煽らないでくださいね。そのうちキレてしまうかもしれないので」
男は少し苦しそうに笑って少年を離した。少年は完全に意識を飛ばしている。男がその頭に手を置いてポンポンと叩いてやるとようやく瞳に光が戻ってきた。
気がつくと同時に火を噴く顔に、男は目を逸らした。あんまり可愛くて、また枷が外れそうだったのだ。
「すみません。驚いたでしょう」
少年はずるずるとへたり込んでソファの背面に額を預けた。一方の男は口元を覆って視線をさまよわせている。
ソファの背面を隔てて、奇妙な間が生まれた。
「高耶さん……いやでした?」
額に手をやって、男が恐る恐るという様子で問いかけた。
「……びっくり、した……だけだ」
少年はソファの背面に顔をうずめたまま、切れ切れに答える。まだ高校生になったばかりの少年には衝撃が強すぎて、立ち上がることはおろか、いつものように話すこともままならないようだ。
一方の男も自分の堪え性の無さに茫然としているように見える。
まるで中学生の初恋のように、不器用にソファの背を隔てて赤くなる二人だった。
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