「待って!」
一足早くその腕を捕らえ、ぐいと引き寄せる。
勢い余った体が倒れ込んでくるのをしっかりと抱き止めて、男は決して逃がすまいと少年を胸に閉じ込めた。
「離せよ!」
少年は抗うが、歴然たる体格差の前には為すすべもない。
じたばたする体をじっと抱いたまま、男はしばらく待った。
やがて少年が抵抗を諦めおとなしくなると、彼は少年の髪に鼻先をうずめてぎゅうと腕を強くした。
「あんなことをして……俺は都合良く解釈してしまいますよ」
艶やかな黒い髪に半分うずまったままの言葉はややくぐもっていたが、そこには溜め息と蜜のような甘さ、そして低く喉の奥にこだまする苦さがない交ぜになっていた。
困り果てたように眉を寄せていながら、その口元は綻んでいる。
「……何だよそれ」
どんな罵倒も甘んじて受けようと腹を括って抵抗をやめた少年は、抱擁の強さと吐息交じりの囁きに少し戸惑いながらぶっきらぼうに呟いた。
掠め取るみたいにして一方的に奪ったキスだったのに。
自分が恐れていたような拒絶の反応ではなく、返ってきたのは強すぎる抱擁と震える声。
こっちこそ『都合良く解釈』してしまいそうになる。
少年の戸惑いごと、男はその肢体を抱きしめた。
「あなたは俺のことを……キスしてもいいくらいには好きでいてくれるのだと」
喉の奥から紡がれた声には紛れも無く蜜の甘さがある。
目を見開いていた少年がその深い色に身をゆだねようとしたとき、男は次の言葉を紡いだ。
「俺は佐和先生を好きでした。そっくりなあなたに出会ったとき、心臓が止まりそうでした」
びくり、と少年の体が強張った。
「言わなくても知ってる。直江が好きなのはお袋だって。ちゃんとわかってる」
一拍を置いて発せられた少年の声は震えなかった。どんなに心に突き刺さる現実であっても受け入れてきた彼の剛さがそうさせていた。
しかし、男は少年の一瞬の強張りも砕こうというように、腕の力を強くした。
「これまではそうです。いつでも佐和先生の面影があった。でも今は俺の中はあなたのことでいっぱいです。
顔立ちは同じでも全然違う。俺がどうしようもなく好きで、足元に縋りついてでも傍に置いてほしいと望んでいるのは、あなたなんです。
あなたがいつか、好きな女性と結婚して新しい家庭を作る日を思うと、心臓が破れそうに痛い」
少年は思いもかけない言葉に硬直している。
「俺はどう頑張ったってあなたの妻にはなれないし、子どもを産んであげることもできない。何一つあなたのためにしてあげられることなんてないのに、欲張りな俺はあなたが欲しいんです。あなたが俺のことを好きになってくれたらと願ってしまうんです」
男は腕を少し緩めて少年の体を僅かに離した。ぱっと俯いてしまった相手に顔を寄せて、こめかみの辺りに唇を押し当てる。
「だから聞かせてください。さっきのは……俺はあなたに好きでいてもらえているのだと自惚れてもいいんですか?」
少年は俯いたまま動かない。
「お願いだから何か言って。俺は不安で死にそうなんです。勘違いだったらと思うと胸がつぶれてしまいそうだ」
少年は頑なに顔を上げようとしない。
「何か言ってくれないと……キスしますよ」
焦れた男は赤みの差した頬に手のひらを滑らせ、くいと面を上げさせた。
匂うように紅潮した頬に、いっぱいに涙の溜まった瞳から、溢れた雫が流れて落ちる。瞬くたびにこぼれ落ちる透明な雫を、男は何度も吸い取った。
「嫌がって泣いているのではありませんね……?」
止まる気配のない涙に、男は眉をハの字に寄せる。不安そうに尻尾を揺らす大型犬さながらの表情に、少年は思わず笑った。
泣き笑いの顔があまりにも可愛くて、男は待つことをやめた。
「ん」
笑う形になった唇に覆い被さり、少年の驚いた声を吸い取って、柔らかい感触をついばんだ。
二三度ついばんだだけで少年はくたりと力を無くし、真っ赤になる。
そんな自分に腹が立つのか拳を握りしめ、可愛くてたまらないという表情をして自分を見ている男に叩きつけようとして、それは八つ当たりだと気づいたらしく引っ込める。
その一連の動作までが愛おしくてたまらない男は、行き場を無くしたその拳を捕まえて口元に持ち上げた。
「殴ってもいいんですよ。許しもなくあんなことをしたのは俺ですから。怒ったならそうして」
言って、その指先にキスを落とす。
びっくりして手を引っ込めた少年はますます赤くなって、
「むかつく……」
とそっぽを向いた。
「すみません。いじめてしまいましたね」
うーと唸っている少年の頭に手を載せてぽんぽんと叩き、男はゆっくりと相手の体を引き寄せた。
歳の差はあるといっても、あと十年で自分がこの男ほどの体格になれるとはとても思えない。そんな広い胸板に抱きくるまれていると、不思議なくらい落ち着く。
子ども返りしているのだろうか。父親の記憶が殆どない自分にとって、こんな風に全身をくるみ込まれて安らぐ経験はヤツがうちに来るまで無かった。母親はどうしたって華奢で柔らかかったから、こんな風に強くはなかった。
この腕は強いけれど優しくて、安心して甘えられる感じがする。
甘えるために相手が欲しいわけではないのだけれど。ヤツはずっと大人で、いざとなれば自分を奪う方法は心得ているだろう。さっきのように、簡単にこちらをくたくたにさせることができる。
ちょっとむかついたので、背中に回した手で肩甲骨のあたりを抓ってみようとして、うまくいかなかった。つまめるほどの脂肪はないらしい。固すぎて指が滑ってしまった。
それでも男はびっくりしたらしくひくっと喉の奥を鳴らしたのがわかった。
「あの……高耶さん?」
顔は見えないが、困惑した声だ。
直江の心臓が急に早くなったと思ったら腕が強くなった。
密着の度合いが高まり、弾力のある体の感触がダイレクトに伝わってくる。さすが水泳で鍛えた体だ。
あと十年でこうなれるとはとても思えないなと改めて思っているうちに、抱擁は尋常ではない強さになっていた。
「直江?」
絞め殺されるかと疑うほどぴったりと抱きすくめられる。
急にどうしたのだろう。抓ってみたのが引き金になったらしいが、理由がわからない。
くすぐったかったのか。それとも痛かったのか。いや、そもそもまともにつまめなかったのだから痛いはずがない。
「直江?どうかしたのか?」
背中に回した手で背骨の上を引っかいてみる。
変化なし。ヤツの腕は強いまま、無言で何かに堪えているように僅かに震えているようだ。
笑いをこらえているようにも思える。そんなに笑うようなことがあったとも思えないのだが。やっぱりくすぐったかったのか。
無言のまま長い抱擁を過ごし、やがて深くため息を吐いて、ヤツは腕を緩めた。
「……すみません。痛かったですか?」
「いや、そうでもないけど。どうしたんだよ、急に」
「いえ、ちょっと……限界を試されたもので」
「?何だそれ」
意味がわからない。笑いをこらえる限界ということだろうか。随分苦しそうだったけど。
きょとんとしている少年の鼻先に唇を落として、何でもないんですと呟く男は、既にいつもの大型犬スマイルを浮かべていた。
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