「やっぱりおまえの腕は落ち着く。前もこうしてくれたよな」
「そうですか。嬉しいです。俺もあなたの体温を抱いていると何だか安心します。高耶さんが男の子で良かった。女の子ならセクハラで訴えられてしまいますね」
「別に訴えねーけど。まあ人が見たら驚くかもな。普通こんなスキンシップしないし」
「いい歳をした男と少年がね。普通しませんね」
冗談を言い合いながらも、二人は体を離そうとはしなかった。若い親子のように、ごろごろと懐き合う。
なりは大きくとも、彼らは大切なものを無くした痛手から抜けきらない子どもなのだ。その脆い姿を晒し出すことができる相手をとうとう得た二人は、誰憚ることなく相手に甘えていた。
温かくて穏やかな安らぎをただ、分かち合っていた。
この温もりを、ずっと手にしていたい。
誰にも渡したくない。死ぬまでこの大型犬の毛並みに顔をうずめていたい。
彼は人間なのだから、きっといずれ伴侶を得て彼の家族を作るのだろうけど。
自分ではどう頑張ったところで彼の妻にはなれないし、仕方のないことなのだ。
*
少年はカーテンの隙間から差し込む日差しに目を覚ました。
何度か瞬くと見慣れた自室の壁紙の模様が目に入る。何ら普段と変わらない筈なのになぜか何か違和感を感じて、ふと吸い込んだ空気に彼は目を見開いた。
自分のものではない甘い香りがする。これは紛れもなく同居人の匂いだ。
背中が温かいのは、背後から抱きしめるようにして眠っている男の体温だったのだ。
そうっと首をめぐらせると、穏やかな寝息をたてて幸せそうに眠っている顔がある。長い睫毛が夢でも見ているように時折揺らぐのを飽かず眺めた。
昨夜二人して懐き合っているうちに眠ってしまったのだ。たぶん先に寝たのは自分で、男は何となく添い寝してくれたのだろう。
ヤツ自身も一人で寝直すのが寂しかったのかもしれないし、もしかしたら自分がくっついて離れなかったのかもしれない。
どちらにせよ、目覚めて傍に誰かがいるのは悪い気分ではなかった。
普段は男の寝顔など見ることはないし、新鮮な気分だ。気持ち良さそうに眠っている顔はやっぱり昼寝中の大型犬のように愛らしい。
すっと通った鼻筋にチューしたいなと思ったとき、んん、と鼻にかかった声を出して男が目を開けた。
「ああ、おはようございます」
ヤツは何を間違えたのか腕を回してきて、額をくっつけた。
反応に困っているうちにぷちゅ、と温かい感触があって、思わず固まってしまった。
「寝ぼけてるぞ」
一瞬ののちに我に返り、額を押して顔を離す。そうして至近距離で見てみると、やはりヤツは眠そうな眼を瞬いている。乱れた前髪の間からこちらを見ている瞳はいつもより濃い茶色に見えた。綺麗なはちみつ色だ。
その甘い色の表面に、自分の顔が映っている。ちょっと困ったみたいな表情をして、何か言いたそうに口を開きかけている。
オレは何を言いたいのだろう?
ヤツの瞳の中に何を見つけたいのだろう?
茶色い瞳に映っている顔はだんだん歪んでくる。泣きそうな顔だ。
そう、これは胸が痛いからだ。
手に入れることのできないものを、欲しいと思ってしまったから。この綺麗な茶色い瞳に自分が映っている。今のところは、自分だけが。
その光景がどうしようもなく嬉しくて、半分夢の中にいるこの男がどうしようもなく愛おしくて。
感情の許容量をオーバーしてしまったから涙が出てくるのだ。
欲しいと思う気持ちには際限がなくて、昨夜同居の約束を手に入れたばかりだというのに、もう次の欲が出てきた。
この男が好きになる人が自分であったらいいのにと。
恋人なら、ずっと一緒にいられる。新しい家庭を作りに出て行く日に怯えることもない。
否、一人になるのが怖いからじゃない。ただこの男が欲しい。こいつじゃないと駄目なんだ。この犬みたいな茶色い瞳に映るのが自分だけじゃないと。
少年の目に盛り上がった涙がとうとう溢れて落ちた。
すぐ傍でそれを目にした男ははっと瞳を正気に戻して完全に目を覚ました。
「高耶さん……?どうしたんです!」
男は少年の頬に手のひらを触れて、
「もしかして俺が何か迷惑をかけましたか。何かしましたか?」
添い寝したことが泣くほど嫌だったとは思えない。彼なら、嫌だと思ったら蹴り出すだろう。少なくとも泣いて抗議するという手段にはなるまい。
ではやはり自分が無意識に何か泣かせるようなことをしたのか。もしかして、
「俺はあなたに……何かひどいことをしましたか」
口にできないようなことを。
実は夢の中で彼にくちづけた記憶がある。現実にもそうしたい衝動に駆られることがある。
実行したことはないつもりだが、一緒に寝ている間に何かしなかったとは言いきれない。
「高耶さん……もし何かしたなら謝ります。だから泣かないでください。話して」
「別に何もしてねえ。心配すんな。おまえが寝ぼけてたのはわかってる」
「じゃあどうして泣くの。怖い夢でも見たの?」
「そうじゃない」
「じゃあどうして……」
少年はやおら男の顔に手を当てて目を塞いだ。そうして視界を奪ったまま、伸び上がって唇を塞いだ。
「た……」
柔らかい感触の意味に気づいたときには少年は体を離している。
「高耶さん?」
男が身を起こしたとき、少年はベッドを抜け出そうとしていた。
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