第五章 体温
幼馴染の不調は、想像したよりも複雑なもののようだ。
試験勉強を口実に家に誘ったら、親友は夕食時になって思いつめたように呟いたのだ。
「譲……今晩、おまえんところに泊めてくれないか」
これが他の友達なら、家に帰りたくない理由(例えば家族と喧嘩をしたとか)があるのだろうと推察できる。だが、この親友は両親を既に亡くして、一人暮らしをしているはずだ。
一体どういうことだろう。
「それは全然いいけど、どうしたの?エアコン壊れて蒸し風呂状態とか?」
考えられるケースとしては、家の中の環境に問題が生じたということくらいだ。ちょっと大げさに眉をしかめて訊ねてみたが、やはりそんな理由ではないようだった。
親友は笑う余裕さえなさそうな消沈した様子で、ゆっくりと首を振った。
「そういう問題はねーよ。ただ、家に……帰りたくないんだ」
やはり、帰りたくない『理由』が家に『いる』のだ。
「なんで?高耶、一人暮らしじゃなかったっけ。誰か来てるのか?例の親戚?」
父方の親戚とのいざこざについては聞いていた。親友にとって会いたくない人間たちといえば、彼らだろう。
そう推測したのだが、親友の答えは意外なものだった。
「……違う。オレ、同居人がいるんだ。でも、しばらく顔合わせたくない……」
「同居人って……一体誰を?佐和子さんが亡くなってからは一人で暮らしてたんだろ。それがどうして」
「事情は色々あるんだ。オレが自分の意思で迎え入れた人間なんだよ」
親友はそれきり、何も話そうとしなかった。
自分に話せることならきっと話してくれただろう。そのくらいの信頼は得ていると自負している。それをしないということは、『同居人』の件は誰にも話すことのできない事柄なのだ。
それなら、自分にはもう追及の術はない。彼がシェルターを必要としているのならそれを提供するだけ。
何も言えない。
たとえ夜中に彼が一人で膝をかかえて泣いている声に気づいても。
*
直江がまたあの悲しい瞳をしている。
ちょうど最初の頃のような。
いつも何か言いたげで、けれど口にしようとはしない。奴は何を言おうとしているのだろう。茶色い瞳に浮かべる悲しみはなぜなのだろう。
出て行きたいのか。もう母の思い出は充分手に入れたから、行くのか。
オレを一人置いて行くのが忍びなくて、口にしづらいのか。優しい男だから。
行かないでほしいと縋りたい。心の中ではいつも叫んでいるのに、喉元までせり上がっても押し殺すしかない。こんな我が儘、口にできるはずがない。
苦しくて、面と向かっていることに耐えられなくて譲のところに逃げている。いつ出て行くと言われるか怖くて、許されるはずもない我が儘を口にしてしまうのが恐ろしくて、顔を合わせられない。
玉砕覚悟で一度だけ言ってみようかと思うこともある。一度だけ許してほしいと。
でも、我が儘な本音をぶつけるには男は優しすぎる。オレがそんなことを言ったら、ヤツはきっと見捨てたりできない。
そんな足枷にはなってはいけない。
少年がベッドにうつ伏せて肩を震わせているところへ、ノックの音がした。
「ホットミルクを持ってきました。少し休憩はいかがですか」
男はよくこうして差し入れをしてくれる。しかし今はタイミングが悪かった。
「! どうしたんです!具合でも悪いんですか?」
男はベッドにうつ伏せている少年に気づくと、盆を置くのもそこそこに駆け寄った。
肩に手を置いて揺すぶると、少年は伏せたまま首を振った。しかし頑なに顔を上げようとも声を発しようともしない彼に相手は心配を募らせ、
「大丈夫なら顔を見せて」
と少年を仰向けにさせた。少年はすぐに両腕で顔を隠したが、涙に濡れた頬を庇いきることは不可能で、男は息を飲んだ。
「何か……つらいことがあったんですか?俺に話せることなら話してください。お願いだから一人で泣かないで」
少し躊躇ってから、彼は少年の背に腕を差し入れて抱き起こした。唇を噛んで嗚咽を堪えている細い体を自分の胸にすっぽりとしまい込む。
少年は抗わなかったが、身を凭せかけようともしなかった。
「お願いだから泣かないで……あなたが泣くと俺もつらい」
男はまだ細い体を完全に抱き込んでいながらも、自分の方が余程誰かに抱きしめてほしいような心細い表情をしている。
「泣かないで……泣かないで……」
怖い夢を見て目を覚ました子どもがぬいぐるみを抱きしめて泣くように、彼は腕の中の存在に懇願していた。
少年は自分の方が死にそうな声で訴えてくる男に、ぐっと拳を握り締めた。
「つらいのは……この顔で泣かれることだろう?」
「え……?」
「お袋の顔だからつらいんだろう?」
少年は歪んだ声で言葉を紡いだ。一度口にしてしまえば、堪えていた思いは堰が切られたようにとどまることを知らなかった。
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