男は少年の変化にすぐに気づいていた。
だが、理由も解決策もわからないし、訊ねることすら憚られる。
もしも自分に出て行ってほしくて、けれど優しい彼はそれを口に出せないのだとしたら。自分はそれが怖くて何も訊けない。自分が気付かないふりをしていてこの暮らしが続けられるのなら、訊かない。
彼の親切に甘えて同居してからまだ僅かな時間しか重ねていない。それなのに自分は二人での暮らしにすっかり浸ってしまった。もう彼のいない食卓は考えられない。おはようの挨拶を交わす相手の不在には耐えられそうにもない。二人でこしらえた料理に舌鼓を打つ楽しさ、拙い自分の新作を褒めてくれる彼の笑顔。そんなものの全てがいずれ失われるなどということを、想像するだけで胸が裂けてしまいそうだ。
半分死んでいた自分を拾い上げてくれた佐和先生を恋うたほどに、今また俺を拾って懐に入れてさえくれた彼を、二度とこの手から離したくない。
違う。彼を手に入れたいわけではない。自分だけのものにしようなどと高望みはしない。ただ、今このままにずっと傍に置いてほしい。本当に家族になれたらいいのに。兄弟のようにずっと共にあれたらいいのに。それが駄目なら、いっそ犬か猫にでもなって彼のペットになりたい。そうすれば彼が立派に成長して結婚しても家の片隅くらいには置いてもらえるだろうから。
そんな形でいいから、共にいたい。
無論夢物語でしかない話だが、本当にそうなればいいのに。
自分は彼に何もしてやれない。せめて女性であれば、結婚という形で本当の家族になることも可能ではあっただろう。そうしたら一生懸命に努めて彼を幸せにした。物心もつかない幼い時に父親を亡くし、母一人子一人で暮らしてきた彼に、家庭というものを与えてやることができた。
けれど自分も彼も男だから、そういう真っ当な形で共にいることはできない。この暮らしには一体どんな名を付ければよいのだろう。親戚でも家族でも兄弟でもない彼と、いつまでも一緒に暮らしたいというこの願いを、何と呼べばよいのだろう。
ただ自分は、彼と共にある毎日がどうしようもなく幸せで、この幸せがずっと続けばいいのにと狂おしいほどに願うのだ。
彼女を想う以上に欲しいと思うものなど無かったのに。その彼女を失ってから、二度と何かを欲しがることはないと思っていたのに。彼女のたった一人の息子を、驚くほど彼女に似た彼を、一人前になるまで見守りたい。大人という立場を利用してできうる限りのことをしてあげたいと、そう思っていたのに。
彼を見守り社会に送り出すどころか、永遠に傍で暮らしたいなどと。誰が見ても奇妙でしかないこの同居生活を。どんな言葉でも形容できないこの暮らし。それでも自分にとっては無上の幸福なのだ。
そう、幸福。
その言葉でなら形容できる。ただその一言で。
佐和先生、俺は彼との暮らしが幸せでならないのです。もしも彼も同じように思ってくれるのなら、全身全霊を傾けて彼を幸せにするため努めます。彼の幸せのために俺は何でもしてみせる。
だからどうか、この暮らしの一日でも長く続かんことを。
どうか俺から彼を取り上げないでください。
*
胸引き裂くほどの願いも虚しく、彼はある夜帰宅しなかった。
友達んちに泊まるから、という短い連絡一つを残して携帯は電源が切られ、無論家の電話が鳴ることもなかった。
心配と恐怖と苦痛で一睡もできなかった自分を、朝になって戻ってきた彼はさすがに驚いた顔で見上げた。
「もしかして寝てねーの?メール入れたんだけど、見てなかった?」
心配で眠れなかったのだろうと気づいた彼は申し訳なさそうな表情で携帯を指差した。
「いえ、それは見ました。……ただ、心配で。電話してもつながらないし。友達といってもどの子のことかわからないし」
「心配しすぎだって。過保護だな。ちなみに友達ってのは譲のこと。幼なじみだって話したよな?」
存在を確かめたくて肩に触れると、宥めるようにその上をぽんぽんと叩いてから彼はさりげなく足元のスリッパを拾う動作で抱擁から逃れた。
「成田くんですか」
「そ。だから心配いらねーって。テスト前だから一緒に勉強してんだ」
「そうでしたか。彼は優秀だそうですね。俺より余程頼りになりそうだ」
「そんなことないけどさ。まあお互いいい刺激になるから、しばらく譲んとこ行くことが増えると思うけど、心配すんなよ」
「そうですか……食事もあちらで?」
「うん。譲の母さんもオレのこと昔から知ってるからさ。良くしてくれる」
「そうですか……わかりました」
その日を境に、彼は週の半分くらいしか帰ってこなくなった。いくら試験勉強といっても泊まり込まなければならないほど切羽詰まっているはずがない。彼はたぶん、俺との暮らしを避けているのだ。俺がいるから、家に帰りたくないのだ。
とうとうその日が来てしまったのだろう。存外早かった。彼にとって俺を居候させておくことはもう、限界なのだ。
住むところを探さなければ。彼に出て行けと言わせるのはかわいそうだから、自分から出て行かねば。
物件が見つかったら、話そう。
本当は言ってしまいたい。あなたとの暮らしがどんなに幸せか。ずっとこのままでいられたらどんなに嬉しいか。足下にしがみついて懇願してでも傍に置いてほしいと。何を擲ってもいいと。
そんなことを言っても彼を困らせるだけだというのに。
こんなことを思っているのは俺だけで、勝手に幸せだと感じているだけ。独りよがりの高望みなのだ。
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