第四章 切望
六月も半ばを過ぎ、生徒にとって上半期の一大イベントである学園祭も無事に終わった学校では、一ヵ月後に迫った期末考査に向けての緊張感がイベントの高揚感に取って代わっている。
生徒たちの多くは授業の合間の短い休み時間も無駄にせず、一人で黙々と、あるいは互いに「ここわかんない」「それはこの文字について整理したらいいんじゃない?」などと遣り取りしながら復習に励んでいた。
幼馴染の少年たちも、どちらかの座席に集まって問題を解くのが習慣となっている。
―――しかし。
「ねえ、高耶」
「……ああ?」
シャープペンシルの先をじっと凝視したまま三十秒も身動きしない相手に焦れた少年は、とうとう痺れを切らして相手の目の前でペンを振って注意を引こうとした。
問題内容を吟味しているわけでも、解答方法を探ろうとしているわけでもない不可解なその沈黙は、明らかに試験勉強とは関係のない何かに思いを馳せているものだと見て取ったからである。
相手は目の前を横切るペンを視界に捉えてようやく現実世界に戻ってきた様子だ。胡乱な眼差しを受け、幼馴染の少年はペンを置いた。
「ああ?じゃなくてさ。……最近ヘンだぞ」
試験勉強を諦めた彼は腕を組んで、本格的に相手を追及する体勢に入った。
「ヘン?」
ぱちくりと瞬きをする様子は、一見したところ以前と何ら変わりがないが、先ほどのように心をどこかへやってしまっている状況がこのところしばしば見受けられるのは、どう考えても『変』だろう。
「ああ。自覚があるのかどうか知らないけど、いっつもぼーっとしてる。ひょっとして恋患い?」
少年はわざとそんな風に問いかけてみたが、そういった類の患いではないことはわかっていた。恋をしたのなら、その恋にどんな悩みがあるとしても、人はどことなく輝いているものだ。友人のこれには、そんな兆しは全くみられない。
果たして相手は首を振った。
「そんな微笑ましいことじゃねーよ。全然」
冗談めかして笑っているが、やっぱりどこか無理をしているように見える。この友人は早すぎる両親との別れを乗り越えて逞しく生きていると思っていたけれど、本当は寂しさにくじけそうになっているのだろうか。
「って何オトナぶってんの。とりあえず、今日はうちに来いよな。はい決定!」
「は?なんでいきなり」
「だって今ので休み時間終わっちゃったし。その分の埋め合わせに付き合ってもらうから」
「付き合ってもらう、って、オレが教えてもらってんだけど」
立場が逆ではないかと首を傾げる友人に「決定だから」と言い置いて、少年は自分の座席へ戻って行った。
(譲のやつ、相変わらず勘が鋭いな)
無理に聞き出そうとしない配慮も昔と同じ。
話したいのならいつでも聞くよと、待ち構えてくれている。
……とても話せることじゃないけれど。
母を亡くしてから二年。一人きりの暮らしにも慣れたつもりだったけれど、あの男と共に暮らした短い間に、すっかり臆病になってしまった。
大きな犬みたいに自分に懐いた男がかわいくて、時には大きな体で自分をくるみこむ優しさに慣らされて、共に取る食事が美味くて、朝起きたらおはようと言えることが当たり前みたいに思えて。
でもそれは男が母を卒業するまでの間だけに許された期限付きの暮らしなのだ。男はそのうち出て行く。そうしたら自分はまた一人きりの生活に逆戻りだ。
想像するだけで胸が痛い。
この暮らしがずっと続けばいいのに。母を好きな男と、母の気配の残る家で。いつまでも兄弟みたいに暮らしていられたらいいのに。
いつかこの男に手を取られ妻となる女性や、生まれてくるはずの子ども達にも渡したくない。奪ってしまいたい。
いつまでも自分の傍であの笑顔を浮かべていてほしい。
許されるはずもないそんな我が儘な望みを、打ち消すことができない。
自分はいつの間にこんな独占欲剥き出しの人間になってしまったのだろう。
欲しいものなんて無かったのに。何一つ特別に欲しいと思うものは無かったのに。よりにもよってこの期限付きの存在を欲しいだなんて。
こんないい男、誰が考えたって男子高校生なんかにかまけているべきじゃない。勿体無いにも程がある。いい恋愛をして結婚して、良く似た可愛い子ども達を産むのが相応しい幸せだろう。昔好きだった人の子どものお守りなんて、人生の無駄遣いどころか殆ど社会の損失だ。
彼をできるだけ早く送り出せるよう努めなければいけないのに。
ずっと傍に引き留めておきたいなんて、何と我が儘な願いだろう。
男は今は刷り込みのせいで自分に懐いているが、まさか一生このままということはないだろう。赤の他人と家族みたいに寝食共にするのも今だけだ。男が新たな一歩を踏み出せるようになるまでの短い間だけ面倒看てやろうと思って家に迎え入れたのに、今はその日が来るのが怖くてたまらない。そう、怖い。一人になりたくないというんじゃなくて、この男がいなくなるのが嫌だ。
この独占欲に、何と名を付けたらいいのかわからない。ただ、失いたくない。
永遠にこの暮らしが続けばいいのに。
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