『俺は幸せです』
男の言葉には形容不可能なほどに深い想いが込められていた。心から幸せだと、雄弁に語っていた。
それが自分と共にいることと関係しているのならいいのにと、少年は思っていた。自分が誰かの支えになれているならと。
特に自分が気に入っている人間には、一緒にいて楽しいと思う相手には、同じように思っていてほしい。まだ始まったばかりの同居生活だが、できれば長く続いてほしいと思う。
期限は男がいつか新しい恋をして幸せに結婚する日まで。そうしたらようやく、彼は母を卒業できる。
男の幸せを考えるなら早くそうなるべきだとは思うのに、その日ができるだけ先になってほしいと願ってしまう。自分はこの男との暮らしが気に入っている。赤の他人なのに不思議だが、一緒にいて楽しい。だから、できるだけ長くこれが続いてほしいと思う。
結婚して出ていったら、この男はもう他人に戻ってしまう。たまに葉書を寄越すくらいの関係になってしまう。こんな風に食事を共にしたり、この間のように一緒に出かけることなんて、二度とないだろう。
そこまで考えて、少年はずきりと胸の痛むのを感じた。誰かの見えない手で心臓を鷲掴みにされたとしか思えないリアルな痛み。
痛い。苦しい。息もできない。胸が塞がってしまう。
嫌だ。この男はもう他人じゃない。既に大事な家族なんだ。分かたれるなんて考えるだけで息が止まる。もう一人にはなりたくない。
嫌だ!
「高耶さん……?」
少年がぎゅっと目を瞑って苦しげに喉元を鷲掴むのを見て取った男が眉をひそめる。
「どこか痛いの?苦しいんですか?」
少年は目を瞑ったまま首を振ったが、相手はそれが強がりだと気づいていた。
「高耶さん」
マグを置いた男は隣の少年に体ごと向き直った。少年はぎゅっと拳を握り締めて下を向いていた。
「高耶さん。何か……つらいことを思い出したんですね」
男は静かに言って、ゆっくりと手を伸ばした。俯いた頭にそっと手を触れ、黒い髪を梳く。少年は口には出さないが、こうされるのが好きなのだ。そのことを短い同居生活の間にちゃんと気づいている男は、手負いの猫を宥めるようにゆっくりとその毛並みを梳いた。
「そんなんじゃ……」
少年はかぶりを振ったが、相手は取り合わない。尚もゆっくりと髪を梳いてやりながら、もう一方の腕を伸ばして少年の肩を引き寄せた。
驚いた少年が身じろぎするのを有無を言わせず封じ込めて、上半身を抱き寄せる。
「俺はここにいます。あなたは一人じゃない」
男には少年が何を思い患っているのか知る術はない。しかし、その俯いた姿が語っているものに気付かないほど鈍感ではなかった。少年は全身で寂しいと訴えていた。
そんな時に一番救われるのは人の体温だと、彼は知っていた。誰かの鼓動や温もりが全身を包み込んで、凍えてしまった心を暖めてくれる。その点、男の長身は有利だった。まだ成長途中の少年の体をすっぽり覆うことができる。
少年は無言の抱擁に驚きつつも、その温もりの心地よさに思わず目を閉じていた。規則正しい鼓動が、胸の痛みを解きほぐしていく。
男の体温は自分よりも低いようだったが、くるみこまれていると日だまりの中にいるように温かい。以前にちらりと見た、完成された肉体の感触を頬に感じる。髪を梳く手は優しい。背中をゆっくりさする手のひらも優しい。
心地良い。
男の無口な優しさが。どんな台詞よりも雄弁な鼓動が。
この存在そのものが。
心地良くてたまらない。ずっとこのままでいたいと願うほど。手放したくない。この存在が自分だけのためにあればいいのにと。
誰にも……渡したくない。
男は長い間、少年に体温を分け与え続けた。やがて相手が自分の背を叩いて解放を訴えるまで。
男を見上げて頷く少年はいつもの顔に戻っていた。ちょっと照れたように目を逸らして、
「悪い。ガキじゃあるまいし」
「いいえ。俺の胸で良ければいつでも使ってください。無駄に広いんだから、役に立つ時ぐらい使ってもらわないと」
男は動揺の原因を追及しなかった。代わりに笑っておどけてみせた。
「確かに広いな。子どもになった気分だった」
少年もつられたように笑った。
男の優しい言葉が嬉しいと同時に苦しい。
いつでも使ってくれと言う男の胸はいずれ、妻や子を抱きしめるためにあるのだ。
「俺も昔は小さかったのにね。今では家族で一番大きいんですよ。これじゃ誰にも懐けません。バランスが悪すぎて」
冗談半分、本気半分に溜め息をつく男に、少年は思わず口を開いた。
「バランスなんかどうでもいいだろ。懐きたかったら懐けよ。見た目なんか関係ない。オレは構わなねーぜ」
男は少年の台詞に目を丸くして、破顔した。
「ありがとうございます。でも俺があなたに懐いたりしたら犯罪ですよ」
「関係ねーよ。誰も見てなきゃいいだろ。オレは構わねーぜ、おまえに懐かれても」
「高耶さん……ありがとう」
男は相手のオトコマエな台詞に表情をとろかせた。吐く息と共に呟かれた言葉はとても深い色をしていて、少年の痛む胸にゆっくりと温かく染み渡っていった。
迷子の大型犬は、自分を拾ってくれた飼い主に優しく撫でてもらったみたいに嬉しそうに笑っている。体はこんなに大きいのに、中身は甘えたりない子どもなのだ。
こいつが望むなら、いつまでだって飼ってやるのに。
少年は本当に嬉しそうに笑う男の顔から目を逸らせずに、キラキラ光っている茶色い瞳の奥を飽くことなく見つめていた。
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