第三章 鼓動
少年の通う高校では、中間考査終了イコール文化祭一ヶ月前である。
一般に文化祭といえば秋のイベントであるが、夏から秋にかけての数ヶ月間は受験生にとって非常に重要な時期である。その時期にエネルギーの多くを文化祭に注ぎ込んでしまっては問題だということで、この学校では敢えて夏以前のこの時期に文化祭を執り行う慣例なのだった。
美術部では部員の描いた絵の展示や、手作りの装飾品の販売をするというので、顧問である男も遅くまで美術室に詰めていることが多くなった。一方、彼の大家であるところの少年は文化祭委員のくじを見事に引き当てたので、毎日のように会議や準備に借り出されている。クラスの中心的生徒というわけではない彼は当初は困惑していたが、彼の同居人はこの人事を良いことだと思っていた。
少年は饒舌ではないし、誰とでもすぐに打ち解けるタイプでもないが、その言葉には同年代の少年少女たちとは違う重みがある。それは彼のこれまでの人生経験によるところが大きいだろう。少年が毎日持参する自家製弁当が彼自身の手作りであることを知る生徒は少ない。彼は両親を共に亡くしているが、その影を彼の言動に見ることは誰にもできなかった。
彼は磨かれた石のように円く、剛かった。その剛さは人の輪の中心において真価を発揮する。
互いに忙しい日々を過ごす少年と男とが久しぶりにゆっくりと夕食を取ることができたのは、金曜日のことだった。
慌しかった一週間を報告し合いながらの食事を終えて皿洗いと皿拭きを分担した彼らは、夕食の後片付けを済ませると、引き続いて食後のコーヒーブレイクに移った。
「今度は温泉に行きたいですね。両親によく付き合わされてるので良いところを知ってるんです」
リビングの壁に張られた金色の夕焼けを眺めて、男がそんなことを言い出した。
大型犬が頭の上に手拭いを載せて嬉しそうに湯に浸かっている光景をとっさに思い浮かべた少年は、楽しそうに頬を緩めて、
「温泉か。いいな。お袋とはなかなか行けなかったし」
「一緒には入れませんものね。残念ながら」
男は合点したように頷き、気づかわしげに少年の横顔をちらりと見やった。亡き母親を思い出させてしまったのを気にしたものであるらしい。
「そうそう。わざわざ別々に入ってもしょうがないしな」
「その点俺たちは問題ありませんね」
うんうんと頷いている少年の瞳に何ら影のないことを見て取った男は、安心したようにマグを手に取った。
コーヒーを啜る仕草さえも絵になる男を横から見上げて、少年はぼそりと呟いた。
「何かコンプレックス刺激されそうな予感がするけど」
「身長ならまだまだ伸びるでしょう?」
自分の肩くらいの所にある少年の瞳に笑いかける男だったが、相手は首を振って遮った。
「じゃなくてカラダがさ。直江服着ててもわかるぐらいイイ体だし」
彼が羨ましそうに見つめるのはがっしりとした肩の辺りだ。合点した男は軽く頷いて、
「筋肉ですか?学生時代ずっと水泳部だったので。今でも定期的に泳いでます」
とその美術教師らしからぬ体型の種明かしをした。
「ああそれで。見事に逆三角だもんな」
「現役時代よりだいぶ落ちましたけどね」
少年の羨望の眼差しをくすぐったそうに受け止め、男ははにかんだ笑顔を見せる。
「いいバランスじゃん。ごつくなく、でもがしっと締まってて」
男女問わず見とれるよな、とからかうような色を浮かべる少年である。彫刻のような顔といい、見上げるほどの身長といい、しかも筋肉までもが理想的なこんな男が半裸でプールサイドを歩いていたら、周囲の人間にとっては集中力の妨げ以外の何物でもないだろう。体を鍛えるはずが、視力ばかりを鍛えることになる気がする。
しかし犬の辞書に自惚れの文字はない。天使のような邪気のない笑顔で少年に微笑みかける。
「高耶さんもいいスタイルだと思いますよ。まだ固すぎないしなやかな感じが」
「理想的にがっちり固い人に言われるとな……」
からかうのも褒めるのも放り投げて、少年は溜め息混じりに首を振った。
「嫌でもそのうち固くなります。焦らないで。ちゃんと栄養取って、良く寝て、健やかに過ごすことが肝心です」
美しい大型犬はいかにも健康的な無敵の笑顔で少年の溜め息を両断した。
「まあ期待して待つか。直江はいつからでかくなりだしたんだ?小学生のときはあんなに小さかったのに」
アルバムで見た天使のような可愛らしい子どもの姿を脳裏に甦らせた少年は、傍らの長身をまじまじと見上げて首を捻る。
「中学の途中からです。部活を始めたのと、あとはやはりタイミングだったんでしょう。毎年十センチ以上伸びたのでミシミシいってました」
大きな体で優雅に動く男は少年のマグに追加のコーヒーを注いでやりながら、当時を懐かしむ顔をした。
「年に十センチ!痛そう……」
少年はといえば、コーヒーをそっちのけで男の話にのめり込んでいる。
「そのうちあなたもそういう時期が来ますよ」
自分のマグにもおかわりを注ぎながら、男は目を細める。
「まあどう頑張ったっておまえには負けるだろうけどな」
「それはわかりませんよ。どちらにせよ、元気で大きくなってくれれば俺は嬉しいです」
少年は相手の保護者のような台詞と眼差しに肩をすくめた。
「直江はオレの親かよ」
「まあ後見人のようなものだと思っていますよ。実際はどっちが後見かわかりませんが。とりあえず年齢では俺が上ですからね」
一回りも下の少年に精神的に救われたことを自覚している男は少し苦笑気味に頷いている。
「じゃ、従兄か叔父って思っとくよ」
「ご近所さんにはそれでいきますか」
「いや、無理だって。昔から住んでるんだぜ。うちの事情なんか町内全員知ってるって」
「じゃあ今はどう思われているんでしょうね。俺が転がり込んでしばらく経ちますが」
男は何か不可解なものを目にした大型犬よろしく首を傾げている。そう、ちょうど両耳をぴくりと持ち上げているところだ。
「さあな。オレらの行動時間帯からして井戸端会議には遭遇することないし」
そんな犬が可愛くてしょうがない少年は、柔らかい茶色の髪を触りたそうに見上げながら生返事をする。
「公園の掃除なんかはないんですか?」
何故か頭を凝視された男は、埃でも付いているのだろうかと思いながら話を続けた。
「あーたまにあるな。半年ごとぐらいか。数家庭ずつ順番に割り振られるから」
少年は名残惜しそうに男の髪から目を逸らし、マグを手に取った。
「ではまだしばらく当たりそうにありませんね」
マグの縁に口をつける彼の黒いつむじを見下ろしながら、本当にまだ少年なのだと改めて思う。
「もしかしたらゴミ出しに行くとき捕まるかもしれねーぜ」
マグから顔を上げて視線を寄越す。黒い瞳がきらりと光るのに目を奪われた。
「そのときはどう説明しましょうか」
どんな返事が来るのか楽しみな表情で男は少年の顔を覗き込んだが、相手は何の頓着もなくあっさりと答えた。
「お袋の教え子って言えばいいだろ。部屋余ってるから貸してるって」
男は事実そのままの返答に内心がっかりしたのかもしれないが、そんな様子はおくびにも出さずに頷いた。
「そうですね。別に、嘘をつくこともない」
「まあご近所さんから学校にばれることもないだろうしな」
「ですよね」
マグをコトリとテーブルに置いて伸びをした少年に従順に頷いている。
「私立だと近所の奴が殆どいないのがラッキーだな」
「確かに。殆どが電車通学ですね。大変でしょうに」
「慣れだってさ。オレはひたすら地元だから想像つかないけど。……狭い世界で生きてるよな」
『彼女』が離れたがらなかったこの土地に固執してとどまる自分を少年は哂う。しかし、傍らの同居人はその自嘲を瞬時に吹き飛ばした。
「そのお陰で俺はあなたに出会えたんですから。この巡り合わせには感謝してもしきれません」
不器用なほどまっすぐなその言葉を受け止め、少年も素直な気持ちを口にする。
「確かにそうだな。おまえと会えて良かったってオレも思ってる。おまえのことは大事な家族だと思ってる」
「ありがとう……高耶さん」
男は本当にきれいに笑った。心から嬉しいと思っていることがよくわかる笑顔だ。感激していると言ってもいいくらいに、男の顔は輝いていた。
この表情に落ち着きを無くしたのは少年である。まともに受け止めるにはそれはあまりにも甘過ぎた。
黙って横を向いてしまった少年に、今度は男が動揺する。
「あの……もしかして本当は後悔していますか」
恐る恐るといった様子で自分の肩ほどしかない少年を覗き込む姿は、傍目には滑稽に映るかもしれないが、当人の表情はこの上なく真剣だった。
宿無しになることを恐れているのではない。少年に自分の存在を疎まれること、それだけが彼にとって脅威だった。
だが、少年はそんな男の必死な様子を見て、はあと溜め息をついた。
「ばかやろ。今良かったって言ったばっかだろうが。何でもないって。……ちょっと見慣れてないもの見ただけで」
「見慣れないものって……」
「おまえが美形だって話だよ」
「はあ?」
恐れていた深刻な事態とはあまりにもかけ離れた答えを得て、迷子の大型犬は些か間抜けな声と表情を晒す。
「少なくともオレが会った中じゃ一番の美形なんだって。そんじょそこらにはいないレベル」
「それは……褒めてくれていると思っていいの?」
「悪い意味で言ってるわけねーだろ」
微かに頬を紅潮させて、照れ隠しのようにマグに鼻先を突っ込む少年である。
「なら、ありがとうございます。他の人にどう思われても構いませんが、あなたに気に入ってもらえるのは嬉しいです」
「お父さん方の顔なんだよな」
「ええ。写真では良く似ているように思います」
「そっか。オレもお袋の顔だからさ、鏡見るたびに会えるんだよ。直江も鏡の中でお父さんに会えるんだな」
少年はコーヒーの水面に映る自分の顔に笑いかけながら、そんな台詞を口にした。
はっと男が息を飲む。
「そういう風に考えたことはありませんでした。本当にそうですね。俺は直江の両親のことをあまり覚えていないと思っていましたが、鏡を見れば会えるんですね」
琥珀色の瞳は瞬きを忘れている。
「そうそう。それが血ってやつだろ。伊達に受け継いでるわけじゃないって」
「本当に……そうですね」
男の声が震えたような気がして少年が傍らを見上げると、茶色の双眸がしっとりと潤んでいた。
「うわ、ごめん」
慌てて目を逸らし、少年は再びマグに視線を落とす。そこには母によく似た顔がゆらゆらと歪に漂っていた。何泣かせてるのよ、と声が聞こえそうで、少年はマグの中身を一気にあおった。
その僅かな間に男は涙を引っ込め、はにかむように小さく笑いを浮かべている。
「すみません。お恥ずかしいところを」
「いや、ヘンな話を振ったのオレだし。悪かった」
空になったマグの底を殊更に覗き込みながら少年はぼそりと呟く。
「いえ、あなたの言葉はとても嬉しかった。記憶には少ない直江の両親のことを、見方を変えただけでこんなにも傍に感じられる。俺は……幸せです」
男は何かを噛み締めるように一言一言を呟き、最後にふうっと息を吐いた。静かな空間にその余韻が行き渡り、少年はその響きに酔いしれた。
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