定期テスト一週間前から放課後の部活動が禁止されているこの学校では、七時限目の終了を告げるチャイムが響いた後にも、各教室には多くの生徒が居残って自習に勤しんでいる。
さて今日はどうするか、ここで勉強して帰るかそれとも家で同居人をつかまえるか、と少年は首を傾げた。
彼の同居人は美術教師という正真正銘の芸術系に属する人間の筈だが、至って数学的な思考の持ち主であるらしく、化学や物理の宿題でわからないところがあるときには大変頼りになるということを、この一月の間に学んだ少年なのである。
男は規格外の長身でありながら至っておとなしいので、少年がリビングのテーブルで勉強しているときに同じ空間にいても、集中の妨げになることがない。
そのうえ年長者に囲まれて育った彼は他人の気配を読むのに長けていて、ちょっとお茶でも飲もうかなと少年が顔を上げると、大抵の場合、完璧なタイミングで盆を手にキッチンから姿を現すのである。
やっぱり家でやることにしよう、と結論を出した彼は鞄に荷物を詰め始めると、同じく帰り支度をした親友が彼の机のところへやってきた。
「昨日うっしーと帰ったんだって?最近仲良いよね。被写体になるのも慣れた?」
耳の早い親友は、にいっと猫のように笑った。
「まさか。昨日は単に最高の一枚が撮れたって言うから見に行っただけだ」
「へえ。高耶が写ってんの?」
「てか、メインは夕陽と犬」
荷物を詰め終えた鞄をトンと机の天板に打ち付けながら、少年はさらりと答えを流した。親友にも同居人を置いたことは話していないのだ。
「そうなんだ。珍しいね。高耶がメインじゃないなんて」
「でも、確かに良い絵だったぜ」
少年は立ち上がって椅子を定位置にしまい、親友と肩を並べて扉へと歩いていく。
「へー見てみたいなあ。今日は持ってきてないかな」
カメラ少年の席をちらっと振り返った親友だったが、件の少年は自習のためにか撮影のためにかは不明だが、疾うに教室から姿を消している。
「いや、人にあげるって言ってたからな」
「残念。今度良いのができたら見せろって言っとこ」
「お前が興味持ってくれたら喜ぶぜ。てか、モデルもお前がしてやればいいのに」
くりっとした瞳と柔らかい髪をした柔和な所謂美少年顔の親友をまじまじと見ての台詞である。
「うっしーが撮りたいのはおれじゃなくて高耶だろ」
「それがわかんねーってんだよ。なんで佐東センセとかじゃなくてオレなんだか」
少年は美人教師の名を挙げて、つくづくといった様子で肩をすくめている。
「よくわかんないけど、そんな単純な問題じゃないんじゃない?単に美形っていうのがカメラマン魂を刺激するわけじゃなくてさ」
「やっぱりわかんねえ」
少年は首を捻って唸るが、親友にはよくわかっていた。カメラマン魂を刺激するのは造作の美しさではなく、生き物としての輝きのようなものなのだ。
この親友はこの歳までに両親とも亡くして、他の平均的な高校生とは比べ物にならない苦労や心労があっただろうに、少しもひねたところがない。石が濁流に揉まれて円くなるように、親友も苦労に磨かれて剛さを得たのだろうか。カメラマン魂に訴えるのはその玉のような剛さなのだ。
「成田くんがそんなことを?」
居間のテーブルでせっせと自習している少年の傍らでヘルプ要求を待ち構えている美術教師は、問題を解く合間に今日の出来事を報告する少年へ、邪魔にならないようおとなしく相槌を打っていたが、帰宅前の一幕について聞かされると、思わず疑問形で言葉を紡いだ。
「ああ。オレにはさっぱりわかんねーけど。なんで佐東センセや直江をおいといてオレなんだか」
少年はノートから顔を上げずに声だけで返事をする。単純な計算問題を繰り返しているのだが、今のところは集中力が切れずに済んでいるようだ。
対する男はしみじみといった様子で頷いている。
「俺にはよくわかりますけどね。俺だってあなたをモデルにしたいですよ」
「絵、描いてくれんの?」
意外な台詞を耳にして、少年は顔を上げた。計算の途中ではあるが、聞き流すわけにはいかない重要な言葉だったのだ。そう、猫ならピンと耳を立ててひげを揺らすところである。
「というかもう描いてます。走り書きですけど」
美術教師は少しはにかんだように笑い、軽く首を振った。
「へー、いつの間に?」
「授業の合間なんかにね。芸術は残念ながら時間数が少ないですから」
生徒は音楽、書道、美術の何れかを入学時に選択するが、実際に授業を受けるのは週に一日、それも一時限のみという時間数なのだ。進学校ならではの、芸術を劣視した時間割である。寂しそうに呟く美術教師に、少年はポン、とその頭を撫でてやり、
「へえ。でもそれって誰かに見られたらまずくねえ?」
「スケッチブックですからすぐに閉じられます。キャンバスはそうはいきませんが」
男は自分よりも一回りも小さな手のひらの感触に機嫌を直した様子で、いつもの笑顔になった。
「でももし見られたらヘンな誤解されんじゃねーの?」
美術教師が個人的に生徒の絵を描くというのは、あまり普通のことではない。ましてそれが美術選択の生徒ですらない場合には。
「そうですね。恋してると思われるかもしれませんね」
少年は首を傾げたが、男は至って朗らかにそんな答えを返した。
「それは趣味が悪すぎるって。ないない」
「そうですか?」
男は悲しそうな顔になった。犬ならきゅーんと鳴いているところだ。少年はうっと詰まって、目を逸らした。
「いや、だってお前みたいないい男がその辺の男子生徒をなんてさ」
「その辺の男子生徒じゃありません。高耶さんはたった一人しかいません。武藤くんが撮りたいのはあなただけで、俺が描きたいのも高耶さんというたった一人の人なんです」
「何か?お前たちにとっちゃオレは珍獣か?」
「まさか!かけがえのない人だということですよ」
肩をすくめておどけてみせる少年に、男は極上の微笑みを向けた。『男でも一発で落ちる』最高の笑顔だ。それをまじまじと見つめて、少年は首を捻る。
「なんでこの顔じゃなくてオレなんだか……。つくづくわかんねえ」
その笑顔の美しさは初めて見た人間なら大いに動揺するところだが、一緒に暮らして見慣れている少年は、動揺するよりも感心する方に天秤が傾いている様子だ。
あの天使みたいな少年も超絶可愛かったが、それがこうなるということがまたすごい。例えば子犬のうちは愛らしくても、成犬になると間延びするということがよくあるのに、この男は期待通り見事に美形に育ったわけだ。
「しかもガタイまでいいときてるし」
少年は隣に掛けた男のがっしりした肩を拳の先で小突いて、ぐりぐりとその弾力を確かめている。
羨ましいの半分、闘志を燃やすの半分といった様子でぐりぐりとえぐってくるのを、男は困ったような表情をして見ている。微妙な刺激を与えられるのはくすぐったいのだが、どう反応すべきか量りかねている顔だ。
「俺はちょっと伸びすぎましたよ。その辺を歩いていても悪目立ちしますし、気をつけないとあちこちにぶつかります」
「いや、お前が目立つのは身長のせいじゃないと思うけど」
肩をすくめる男を見上げて、少年がしみじみと呟く。
苦笑している顔さえも絵になるこの男は、自分ではそんなことに全く気づいていないのだ。そのくせオレを描きたいなんて言ってくる。そういうところも犬属性だ。どんな美犬だって、自分で自分が美形だとは思っていないだろう。まさにそれと同じで、この男は自分の姿形を何とも思っていない。
もう少し自覚してもいいと思うが、たぶんこいつは変わらないだろう。天使みたいな少年時代からずっと、こういう奴なのだろう。
そういうところが可愛いと思ってしまう。ただひたすらに主人だけを追って、撫でてもらうだけですごく幸せそうな顔をする、そういう犬だ。何を間違えたか、今は自分を親鳥と思い込んでいるのだが。
自分自身の美貌には全く頓着していないくせに、どこにでもいる高校生男子なんかを描きたいなんて言ってくる。
こういうところが可愛いのだ。
男の髪をくしゃっとすると、相手はくすぐったそうに笑って茶色の瞳をはちみつ色にとろかせた。少年の動物愛玩心を鷲掴みにする犬属性の笑顔だ。こういう嬉しそうな笑顔を見せられると、可愛くてたまらない。背中の向こうに尻尾が見える。
「直江、お手」
手を出して催促すると、一瞬不思議そうな顔をしてから、にこりと笑って顔を差し出してくる。手のひらに顎をちょこんと載せて、どうですか?というように見上げてくるのがまたどうしようもなく可愛くて、少年は柔らかい髪をわしゃわしゃかきまわして撫でてやった。
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