彼女と
    わたしと
あなたを
       渡る

    桜花








第二章 記念日



「仰木い〜」
 クラスメイトのカメラ小僧に名を呼ばれた少年が用心深く振り返ると、さすがに今回はいつものようにカメラを構えてはいなかった。代わりににんまりと満足そうな笑みを浮かべた顔がそこにある。  どうやら件の写真が出来上がったらしいと見当をつけた少年に、果たして写真オタクは声を1トーン下げてウキウキと告げた。
「昨日のやつなんだけどさ」
「できたのか?」
「いやもう大傑作でさー。とにかく見せたいんだけど、橘センセんとこ行くか」
 顎をなぞりながら一人ごちる彼はいつもにも増してトリッパーである。
 許可無く被写体にされた少年は、憎めないヤツ、と思いながら教科書類をトントンと机の天板に打ち付けて揃えながら、
「そうだな。今日は部活ないし、美術室行けば捕まると思うぜ」
「よし、そんなら速攻行こうぜ!」
 相手は子どもの手から離れたがっているヘリウム風船の如く、そわそわとしている。
「なんかすげー自信だな」
「会心の一枚なんだって。橘センセも消さなかったことラッキーと思うに決まってる」
「そりゃすげーや」
「あの人仰木のこと好きだろ?だったら気に入るよ。渡しちまっても捨てずに持っててくれりゃ俺は本望だ」
「捨てるなんてありえねーよ。あいつそんな奴じゃねえ。お前の情熱に感心してたぜ。人物を勝手に撮るのはルール違反だから叱っただけで。けじめってやつ」
「へえ。仰木、橘センセのことよく分かってんだな」
「まあ時々ああやって話したりしてるしな。女子にバレると面倒だから誰にも言うなよ」
「大丈夫だって。約束だろ」
「ま、破ったらお前のカメラと引き換えな」
「ぜってー守る!」
「是非そうしてくれ」

 彼らがそうしてじゃれあいながら美術室へ着くと、目的の人物は窓辺に立てかけたキャンバスに正対してパステルを握っていた。
 広いキャンバスには、柔らかな色使いで描かれた風景が広がっている。その光景があまりにも綺麗で、生徒たちはしばらく言葉も無かった。

「おや、君たちでしたか」
 ふとパステルを動かす手を止めて教師が振り返る。半分夕陽に照らされた柔らかな笑顔がまるで宗教画の天使のようで、少年たちは返事もできずにただ目を見開いていた。これが女生徒ならたちまち真っ赤になったことだろう。
「どうかしましたか?私に用では?」
 きょとんとして男がパステルを置く。自分の容姿に無頓着な彼には、目の前の生徒たちがなぜ固まっているのか見当がつかないのだ。
「あ、えっと、こいつが昨日のやつ現像できたらしい。」
 やっと口を開いた少年がそう告げると、男は目元の笑い皺を一層深くして、
「それは楽しみですね。良い出来でしたか?」
 極上と言うべき笑顔を見せた。台詞の後半はもう一人に向けられたものだが、武藤は橘のそんな笑顔とクラスメイトの顔を交互に見比べていて、僅かに反応が遅れた。
「あ、えっと、そりゃあもう最高の出来なんですよ!」
が、彼の思考はたちまちのうちに写真のことに支配され、一瞬抱いた疑問はきれいに消え去った。男と少年にとって幸いなことに。
 かくして彼がファイルから取り出した写真は確かに見事な一枚で、教師も少年も感心して見入ったのだった。



 ちょうどあの時と同じような夕焼けの中、少年たちは帰途へついた。
 美術教師は同じ芸術畑の人間として、武藤の撮った一枚を非常に高く評価したので、カメラ少年は思い残すことなくネガと写真を託したのである。
「なあ仰木……」
「ん?」
 校門へ向かって歩いていく道すがら、ふと呟いた友人に、少年は夕日を見上げていた顔を戻して隣へ向けた。
「橘センセ、ほんとにお前のこと好きなんだな」
 武藤はしみじみとした様子でそんなふうに呟いたので、少年は思わずひやりとした。二人の親密度から同居の事実にたどり着くのではないかと。
「は?何言って……」
「別にヘンな意味じゃねーって。ただあの人、お前に笑った顔が他と全然違ってさ。俺、思わず頭の中でシャッター切っちまった」
「そ、そうか?」
 とりあえず関係がバレたようではないと判断したものの、武藤の台詞はやり過ごしてはいけない何かを含んでいるように思えて、少年はやや語尾を跳ね上げる。
 しかし、相手は彼の動揺には気づいておらず、腕を組んでうーんと唸った。
「なんていうか、眼福って感じだな。女子が騒ぐわけだ。男の俺でも見とれちまったんだから」
 ごく普通に女の子が大好きな武藤をしてそう言わしめる橘の美貌には異論は無いので、少年は強く同意した。
「だよな。男でもコロッと参るよな。追求したら本人否定するけどさ」
 実感の篭った同意に武藤は少し疑問をおぼえた様子で、
「そんな突っ込んだ話までしてるのか?よっぽど仲がいいんだな」
「げ、そんなんじゃねーよ」
 少年をまた慌てさせた。
「だから別にヘンな意味じゃねーって。なんか端で見てて、お前らの感じが良いなあと思ってさ。醸し出す空気っていうかな。是非ペアで撮りたいもんだ」
「結局写真かよ」
 安堵と呆れ半々で少年が溜め息をつく。相手は胸を張って、
「そりゃあ俺の目は常にファインダー装着中ですから」
「はあ?どこに付いてんだ?」
 自信満々の台詞に、少年はわざと相手を上から下までまじまじとねめつけてやった。
「心の目に決まってんだろ」
「芸術家魂ってか」
「そうだとも!未来のスーパーカメラマン武藤潮の最初の傑作が仰木なんだからな。ラッキーだぞ」
 武藤は友人の肩をバンバンと叩いて上機嫌である。少年はいつものことなので、やれやれと息を吐きながら、
「まあ夢があるってのは良いことだな」
「だろ!少年よ大志を抱けってやつだ!」


 じゃれあいながら校門へ向かう少年たちの後ろ姿を美術室の窓から描き取りながら、男はくすりと笑った。


 その晩、帰宅した男は早速例の写真をリビングの壁に貼り付け、少年を照れさせたのだった。

「こんなとこに晒すなよ」
「顔が映ってるわけじゃないんだし、構わないでしょう?」
「そういう問題じゃねーって」
「だって俺が独り占めするのは勿体無いじゃないですか」
「うー」
「それとも、いいんですか?俺が仕舞い込んでも」
「それはちょっと……」
「じゃあここに貼っておきましょう。佐和先生も喜びますよ」
「どうかな」
「あなたへの贔屓目を省いたとしても良い出来ですよ、これは」
「絵はいいと思うよ。確かに。ただ自分が写ってると思うとな……」
「まあまあ、せっかくの記念ですから」
「記念か」
「そう、俺の誕生日をあなたに祝ってもらった記念の一枚です」
「まあそういうことなら、いっか」
「ありがとうございます」
「オレも美味い寿司食わせてもらった思い出だし」
「寿司ですか……」

「だから、直江と初遠出の思い出だって」
 がっくりした顔の男に慌てて少年は言い添えた。

 まともに口にするには恥ずかしい台詞だから冗談で紛らわせようとしたのに、男にはそれが通じないのだ。何でも言葉通りに受け取って一喜一憂する。嘘のつけない犬と同じだ。
 こんなに容姿と中身のギャップが激しい男を可愛いと思ってしまうのはちょっとどうかと思うが、一度犬だと思い込んでしまったから、どうしようもない。

 その犬は少年の台詞に早速顔を輝かせている。茶色の瞳が蜂蜜を溶かした色に潤んで、目尻には魅力的な笑い皺が刻まれる。男でも惚れる笑顔だ。
 確かにシャッター切りたくなるなあこれ、と思いながら、少年は手を伸ばした。柔らかな髪に指を梳き入れてわしゃっとかき回す。犬は嬉しそうな困ったような顔になって瞬いた。

 なんでこの犬はこんなに可愛いんだろう。
 仕草だの表情だの、果ては瞬き一つまでもがいちいち可愛い。一回り近くも年上の男だというのに。
 自分は一人っ子だが、長男体質だったらしい。目の前の男が末っ子体質なのも確実で、だから歳の差など関係なく可愛いと思うのだろう。



2

[ 彼女とわたしとあなたを渡る桜花 ]

09.05.23

ゴールデンウィーク明けの学校にて。
うっしーは優れた観察眼を持っているのですが、それを事実に結び付けて物事を探ろうとする気を全く持ち合わせていないので、高耶さんと直江氏にはラッキーでした。

そして末っ子27歳と長男15歳。
……奇妙なフレーズ(笑)

読んでくださってありがとうございました!
ご感想をformにでも頂けると嬉しいです。もしくはWEB拍手をぷちっと……

(image by カナリア / midi by tam)