彼女と
    わたしと
あなたを
       渡る

    桜花











「なんかさすがに先生だよな。びっくりした」
 往路と同様に助手席に収まった少年が隣を斜めに見上げて、楽々とステアリングを操っている男に声を掛けると、男ははにかんだように目尻にしわを寄せて、
「ちょっと焦っていたんですよ。強めに脅してしまいました」
 軽く頭を振る様子を見れば、彼にも相手を脅しているという自覚はあったようである。
「なまじ美形だけに迫力がすごかった。敵に回したくないタイプだな」
 難しい顔をして眉間に皺を寄せる少年は、腕を組みながら唸っている。とはいえそれはただのポーズで、彼の真意としては単に相手の見慣れない姿をからかっているだけなのだが。
「敵だなんて。あなたとの暮らしを守るためになら誰に対しても立ちはだかるというだけですよ」
 前を向いたまま声だけ左を向く男は、相手の言葉の裏に見え隠れする楽しげな意図を見逃すことなく、肩をすくめてみせた。
「まああんまりびびらせないでやってくれよ。あいつ悪気は全然ないし」
 少年は相手の大げさな台詞を笑って流し、クラスメートを庇ってやった。
「それはわかります。写真への情熱だけで動いているタイプですね。私たちのことも深くは考えないでしょう。幸いなことに」
「びっくりしたよな……まさか県外まで来てるのに知り合いに会うなんて」
 頭の後ろに両腕を組んで、世間て狭いなと呟く少年に、男もしみじみと同意した。
「ええ。他の子じゃなくて良かったです」
「あー、女子なんかに見られたら何言われるか、想像だけで寒気がするな」
 少年は苦い顔をして自分の肩を掴んでいる。美形教師を廻る女生徒たちの熾烈な攻防を思い出しての震撼ぶりだが、男は少しずれた方向に言葉を返した。
「高耶さんが男の子で良かったですね。さすがに女の子だと居候はまずいですから」
 互いの立場を思い、しみじみと口にする男だった。
「てゆーか、こうやって休みに一緒に行動してるだけで大問題だよな」
「全くです」
 高校教師と女生徒が休日に県外へドライブ、となればそれは立派なデートだ。他人に知られたら教師は追放、生徒は全校の噂話の種にされるだろう。
「男同士だから友達で通るけど。……いや、それだけでも女子に知れたら半殺しだな……」
 少年はまた自分の体を押さえて寒気をやり過ごそうとしている。そんな様子にちらりと目を走らせ、男は僅かに首を傾げた。
「それは考えすぎでは?」
「お前、自分の評判全然わかってねーな。女子の半分はお前に釘付けで、残り半分は自分には高嶺の花だってため息ついてるぜ」
 少年はあくまでのほほんと構えている相手に半ば呆れた顔になって、腕を組んだ。
「はあ。前にも言いましたが、生徒にどう見られようとも俺には関わりありません」
「そうなのか?」
 男は疑念を払拭しきれていない少年の表情を見て取ると、声音を真剣なものに変えた。
「あなたは別格なんですよ。本当の俺の情けない姿を見ても動じず、手を差し伸べてくれた。俺のたった一つの名前を呼んでくれる。俺の中であなただけが意味を持っていて、強いて言うなら俺にとって人間のカテゴリはあなたとそれ以外だけなんです」
 運転中という状況が許さないが、かなうことならまっすぐに少年の瞳を見据えて話していただろう。男の瞳は真摯としか形容のしようがない色を湛えていた。
「そういう口説き文句は言う相手が違うだろ?」
 少年はその色に少し面食らった様子で、苦笑いしている。
「いえ?合っていますよ」
 迫り来るトンネルの入り口を凝視しながら、男は首を振った。
「合ってるのは顔だけだろ」
 男の初恋の人にそっくりな顔をした少年は、自分の頬をむにっと引っ張ってお道化てみせたが、
「いいえ。俺は高耶さんに話しています。目の前にいるあなたに」
 男はあくまで真剣である。
「……」
 とうとうリアクションを見失ってしまい、少年は黙り込んだ。
 暗いトンネルの中を走る彼らの横顔に、オレンジ色の光が去来することしばし。
「信じてもらえないんですか?」
 運転中にもかかわらず向き直ってきかねない様子に、結局少年が根負けする形になった。
「……わかった。わかったからそんな泣きそうな顔するな!」


 この刷り込みは重症だ。男は悲しみを共有した上、同居の申し出までも与えた自分のことを完全に親鳥と思いこんでいる。誰でも心が弱っているときに親切にしてくれた相手には必要以上の気持ちを抱きがちだが、この男の場合、傷が深すぎた分、感じる気持ちも半端ではない。
 懐かれて困りはしないが、このままだと男は親離れできないのではないかと危惧してしまう。
 自分が心配する筋合いではないかもしれないが。相手は立派な大人なのだし。

 男はなおもフロントガラス越しに少年へ眼差しを向け続けていたが、両手を挙げて降参した少年がにこりと笑い返してやると(主に余所見運転を心配する理由で)、やっと安心したように笑顔を浮かべた。
 相手の心臓に悪い美しすぎる満面の笑みだ。琥珀色の瞳が蜂蜜を溶かしたように甘く潤み、綺麗な弧を描いた眉が僅かに下がる。同居生活で見慣れたつもりでも、思わず見とれてしまう見事な造作だ。
 少年は別段その顔が好きで男を受け入れているというわけではないが、それでも素直に感嘆してしまう。

 母が特に面食いだったとは思わないが、この相手を可愛いと思っていたのは確かだろう。こんなにいい男でもてまくってきたはずなのに、まるで飼い主に懐いた大型犬そのものの仕草で自分だけにまとわりついてくる存在が可愛くないわけがない。一回り近くも離れた自分ですら可愛くてしょうがないほどなのだから。

 本当に犬なら、死ぬまで飼ってやるのにな、と小さくため息を落とすと、僅かな変化も見逃さない男が忽ち心配そうに眉を寄せた。
「何でもないから。ほら余所見すんな」
 この男に限って事故など起こすはずはないと思うが、少年は眉尻を上げて叱咤した。
 はいっ、と前に向き直る姿はよく訓練された犬そのものだ。

 やっぱり可愛い……
 自分がどうしようもなく男を気に入っていることを改めて自覚しながら、少年は不思議に思っていた。
 母の血が流れているからだろうか。こんな年上の、しかも男を可愛いと思うなんて。

 時折ちらりと横目に視線を走らせながら考え込む少年に、究極の安全運転に集中している男は気づいているのかいないのか、落ち着いてハンドルをさばいている。いずれにせよ、男は少年と共に出かけた一日を心から楽しんでいた。鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。
 ご機嫌な犬そのものだな、と半ば笑ってしまいそうになりながら、もう半分では少年は何だか嬉しい気分だった。



第二章

[ 彼女とわたしとあなたを渡る桜花 ]

09.05.18

自分に盲目的になついた大型犬がかわいくてしょうがない高耶さんでした。


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(image by 新-arata- / midi by tam)