転任してきたばかりの美術教師と、そのかつての恩師の息子である少年は、彼ら二人を繋ぐ『彼女』を縁にして、共に暮らしている。
教師が生徒宅に居候というのは一応内密にすべき事柄なので、少年は橘と学校で顔を合わせても特別な素振りは見せないようにしている。
そもそも少年の芸術選択は美術ではないので、直接に関わり合う機会は稀だ。とはいえ、橘ほど目立つ教師を全く視野に入れないというのは却って不自然なので、廊下で出会えば他の生徒と同様に会釈程度はしている。
彼らの態度は極めて自然だったので、少年の親友や他のクラスメイトも橘と彼を特別に結び付けて考えることはないようだ。
彼らは別々に学校を後にし、時々は買い物がてらスーパーで落ち合って帰る。食事は当番制にしているので交互にめいめい買い物をして帰ることもある。男は時には帰路にある洋菓子店に立ち寄って土産を買って帰ることもあり、そんな時は少年は素直に喜んだ。
そんなふうに穏やかな日常が繰り返されたある日、ちょっとしたハプニングが起こった。
「誕生日?今日が?」
五月の連休が始まり、何気なくカレンダーの『憲法記念日』の字を読み上げた少年に、男が『別名ゴミの日が誕生日って微妙ですよね』と応じたのだ。声を引っくり返した少年に、
「はい。祝日なのでいつも誰にも会わないんですが」
相手は別段特別なことでもないという顔をして頷いている。今日が自分の誕生日だということもつい先ほど思い出したという様子だ。
「そんなこともっと早く言えよな。いきなりじゃ何もできないじゃねーか」
男の隣にすっ飛んできた少年が襟首をぐいっと掴む。まさかそんな風に反応してくれるとは思っていなかった男は、ちょっと目を見張ってから、少しはにかんだように微笑んだ。
「いえそんな、気を使わないでください」
「でもお前は毎年カード送ってきてただろ。お袋の誕生日」
少年は襟首を掴んだまま、真っ黒い瞳でじっと男の茶色の目を見据えてくる。
「ご存知でしたか」
男が小さい吐息と共に頷くと、やっと手を離して、すとんと腰を下ろす。
「お袋の物を整理してるときにな。知らない名前だけどあんまり若い感じじゃないから、それこそ恩師とかかと思ってた」
「元の名前は古めかしいですからね。無理もありません」
見た目と名前が一致していない男は、恐らく自分でもそう思うことがあるのだろう。肩をすくめて苦笑している。
だが、少年の眼差しはあくまで真剣なものだった。
「お袋も直江って呼んでたのか?」
「ええ。もう誰も呼んではくれなくなった名前ですから。そのままにしておいたら消えてなくなってしまう。じゃあ私がその名前を使ってもいいかしらって佐和先生が言ってくれたんです」
今でも消えることのない思いを腕一杯に抱いている男の琥珀色の瞳には、遠くを見ているようにキラキラした光が踊っている。
「で、今はオレってわけか」
その瞳が自分の顔の向こうに母を見ているのだと知っている少年は、少し目を眇めて呟いた。
「はい。あなただけです。この名を覚えていてくれる人は」
しかし、男の目はまっすぐに少年の瞳を見つめ返した。その顔をすり抜けて遠いところを見ている瞳ではなく、確かに目の前にいる少年へ向けられている。
「それって、結構重大な役じゃん」
「あなたが呼んでくれるたびに思い出すんです。幸せな記憶を。確かに愛されていたことを」
ゆっくりと、男の瞼が伏せられる。睫毛の作る綺麗な扇形の影が頬に落ちて、少年ははっと息を飲んだ。
「つらくはないのか?」
その問いかけに滲むものを聞き取った男は瞼を上げて、じっと覗き込んでくる少年の黒い瞳に微笑んだ。
磨かれた石のような、鏡のように綺麗な黒がしっとりと濡れている。
「今は失われてしまったものですが、確かにかつては手にしていたという証なんです。この名前は」
その黒い瞳に映る自分は、笑っている。失ったものもあるけれど、こうして出会えた人もいる。自分はとても幸せだ。
「そっか。じゃあオレが大事にしてやるよ。オレだけの名前」
少年は男の微笑みに応えるように綺麗に笑って、男の髪にくしゃっと手を入れた。
「ありがとうございます。それで充分に祝ってもらいました。今日は本当に幸せな誕生日だ」
くすぐったそうに笑う男は、本当に幸せな顔をしている。
「でも、それとこれとは別だ。何かしないと。何か……そうだ、食いたいものとかある?」
しんみりとしていた空気を破ったのは、何とかして同居人の誕生日を祝いたいという少年の必死さだ。
「あな……、いえ、何でも」
「アナゴ?じゃあ寿司か!このへん旨い店あったかな」
少年はソファからぴょんと飛び降りて、出かける気まんまんの様子だ。その溌剌とした背中に男の声が掛けられた。
「それなら少し遠出しましょうか。海に近いほうが魚は旨いはずです」
「ドライブか。直江って運転上手そうだよな」
振り向いた少年がにやりと笑うと、
「とりあえず安全運転主義です」
男も調子を合わせて胸を張ってみせた。
「さすが先生」
「ましてあなたを乗せるのなら更に安全運転でいかないと」
「安心して乗せてもらうよ」
早速ドライブに出掛けた二人は人生経験の勝る男が記憶から引っ張り出した旨い寿司屋に辿り着くことができた。
新鮮な海の幸をたらふく詰め込んだ二人は、運動がてら海辺へ歩いて行った。
泳ぐのに適した季節ではないので、海岸には人影は疎らである。大型犬の散歩に来たらしい地元住人と、同じく観光で来たついでに少し潮風に当たろうというところのカップル。
折しも太陽が波間に浸りかけるところで、水面は黄金に輝いている。写真が趣味でなくともシャッターを切りたくなる情景だ。男が瞼に目の前の一枚を収めたとき、背後で本物のシャッター音がした。
反射的に振り返ると、本格的なカメラを構えた若い男がしきりにシャッターを切っている。
ファインダーの真っ直ぐ向こうには、地元住人の連れてきた犬と戯れる少年の姿が黄金のスクリーン上にシルエットを描いている。逆光のうえ遠目なので顔までは写るまいが、勝手に被写体にされるのは愉快ではない。
「きみ、撮るなら了解を得てからにするんだ。そう教わらなかったのか?」
レンズの前に体を滑り込ませて声を掛けるのと、相手がカメラを下ろすのは殆ど同時だった。そして男が呆然と呟いたのも。
「橘先生……?」
|