一瞬の隙間もなく矢のように流れてゆく時間。
電話のベルはひっきりなしに鳴り続け、事務も秘書も息つく間もない。
その頭上を、怒声にも似た勢いの遣り取りが飛び交う。
ともすれば書類の束さえ、流星の如くダイブする。
休みなく引っぱり出され、嵐の勢いでめくられる分厚い資料ファイルは、既に、本棚に戻す暇すら見出されず、机上に広げられたままだ。
ここは直江弁護士事務所。
世に忙しき人々はあれど、ここを一目見れば、その判断基準を改める気になる者は少なくないだろう。
重ねて言うが、ここは弁護士事務所である。
それも、民事向き、特に不当な扱いを受けて苦しむ人々のために尽力する、平たく言うならお助け屋的な弁護士たちの集まった場所だった。
そう、お助け屋。
依頼人は大抵、他で弁護士をつけるのが困難なくらい『普通の』人々だった。
そして、その数が並大抵ではない。
これほど、ごく普通の民間人の依頼人相手に親身になり、尽力してくれるところは、そうはない。
そして料金も良心的だ。
噂が噂を呼んで、この事務所は常に戦場の様相を呈していた。
持ち込まれる仕事は、不法就労の弱みを突かれ、約束された最低の賃金さえ払ってもらえなかったという外国籍の人々によるものから、医療ミスに泣く患者や家族・遺族によるものまで、さまざまである。時には、生活保護を受ける身で、苦しい生活の中からやっとの思いでこしらえた貯金のために保護を打ち切られたご老体が扉を叩くこともあった。
今日も、扉は叩かれる。
「おはよっ直江!」
ドアを開けて、ここの主砲・直江信綱が書士の仰木高耶と共に入ってきたとき、習慣から半ば無意識のうちに挨拶しながら顔を上げた事務の門脇綾子は、少し驚いた顔になった。
この二人が共に扉をくぐったのは、高耶が初めてここへ来た時以来のことだった。
直江が休暇中に知り合った高耶を連れてきて、新しい書士を紹介する、と事務所のメンバーに引き合わせたのは半年ばかり前のこと。中学のときに事故で両親を亡くし、働きながら夜学で学んで司法書士をパスしたという高耶は、経験のない新米ながら、驚くほどの順応性を顕して、既に事務所には欠かせないメンバーになっていた。
「おはよう、ねーさん」
ああと短く返事したきりでデスクに飛び込む直江の後から、高耶が綾子に挨拶を返した。
彼は何か言いたげに直江の方を見やったが、既に頭のてっぺんまで仕事に浸かった相手の様子を見て、その唇を閉じた。
そして自分のデスクに向かうと、先ほどの表情はすっかり消してすぐにペンを握り、猛然と紙束にかかり始める。
そのさまが綾子には引っかかって、直江がいらいらと自分を呼んでいることにもしばらく気づかなかった。
「……おい、綾子!」
「え?」
少し声を荒げられて、ようやくそれに気づき、綾子は慌ててウェーブのかかった髪を翻して自分の席を飛び出した。
既に、そこにあるのは人間ではなく、矢継ぎ早に指示を受けてはコマのようにまわりながら所内を走り回る、一個の仕事機械だった。
「ただいま、っと」
そうこうしているうちに、勢いよく扉が開かれて、いかにも若手という感じの青年弁護士が帰って来た。メガネを掛けているが、髪は長めで、後ろで一つにくくっているのがラフさを強調している。身につけているのもごくカジュアルなタイプのスーツで、そんな中、胸元のバッジだけが硬質だった。
「お帰り千秋。首尾は?」
「上々よ」
ものすごい勢いで資料をめくりながら、目だけ上げて問うた綾子に、彼―――千秋修平は片目を瞑って答えた。
そうする間にも手足は動きを止めることはなく、デスクと書類の山の間をかき分けて進んだ彼は、直江の机の上に、持っていた資料と書類の詰めてあるらしい厚い封筒をドサリと置いた。机の主が電話機を肩に挟みながら目線だけで労をねぎらうと、小さく親指を立ててみせ、踵を返して自分のデスクを目指す。その途中にも二度、鳴り続ける電話に応対し、その間をぬって脇からさっと差し出された紙コップのコーヒーを口に運ぶ。そして、席に着くや再び鳴り出した電話を肩で挟み、早口に応対しながらも目は別件の資料を追っている。
殺人的な忙しさだった。
すべてがフル稼働していた。その中にあっては、もはや人間も人間ではない。
鳴り続けるベル。
宙を舞う紙。
きりきり舞いをする機械人形たち―――
直江弁護士事務所の、日常だった。
世にも異様なまでの密度の濃さで時間は過ぎ去り、昼になった。
ようやく一息ついたメンバーたちである。
綾子はもう一人の事務担当女性と連れ立って外へ昼食に出かけ、千秋は外回りに出たまま帰らない。
もう一人の若い弁護士はやはり昼食を取るべく外へ出てゆき、所に残っているのは、昼休みになってもまだ顔を上げることなくペンを走らせている主砲・直江と、気遣わしげにそれを時々見やる高耶の二人だけだった。
電話が鳴り始めた。
「―――はい。直江弁護士事務所でございます。……ああ、お世話になっております……」
すぐさま応対する高耶。
直江の邪魔にならない程度に抑えた声で、早口に会話を続ける。
しばし、所内にはその声だけが響いていた。
かしゃん
用件を済ませて、高耶が受話器を元に戻した。
とたん、静まり返る所内。
高耶は再び、ちらりと直江を見やった。
その視線の先で、ペンを片手に、もう片方の手で厚い資料を繰り、すばやく目を通してはペンを躍らせる直江の姿。
邪魔はできない、と諦め、高耶は窓際にあるデスクから、窓外へ視線を移した。
日差しは明るい。
カーテンを開け放った大きな窓から日が一杯に差し込んで、眩しいほどだ。
あたたかな光。
目を細めて それを一杯に浴びる。
ふと、直江が顔を上げた。
見れば、やけに静かな所内である。
(ああ、昼休みか……)
ぼんやりと思いながら所内を見回した直江である。
その視線が、高耶の姿をとらえた。
「……っ」
明るい光を体一杯に浴びた高耶。
漆黒の髪が眩しい光に溶けて……
そのまま翼を生やして飛んでゆきそうなまでに、綺麗だった。
そう、背に光の翼を現して―――。
伸びをするというのか、彼がゆっくりと腕を広げた。
指先にまで光が染み渡って、透けるようだ。体の線が金色に輝く。
さしこむ光に、本当に溶けてゆきそうだった。
(消えてしまう……ッ)
―――ガタン、と音を立てて直江は立ち上がった。
その音に、高耶が振り返る。
まっすぐに直江と視線が合って、彼は驚いたように目を見開いていた。
「……」
無意識にその左手が口元へ上がり、直江はそこに何かが光るのを見た。
―――衝撃。
「 !? 」
高耶の左手……その薬指に、銀色に光る指輪が嵌まっていた。
―――すうっ。
直江の気配が一気に冷える。
故は見当もつかないながら、絶対零度の沈黙の向こうに氷の炎が燃えるのが、高耶にはわかった。
直江は席を立った。
ことさらゆっくりと歩み寄る。
そして、高耶の左手をとらえた。
「な……」
彼が反射的に引っ込めようとしたほどに、それは強引なつかみ方だった。
「な、んだよ……直江……」
声がかすれる。喉にからんで干上がったよう。
「外しなさい」
有無を言わさぬ強引さで、直江が高耶の薬指に手をかけた。
そのまま力任せに輪を引き抜こうとする。
驚いたのは高耶だった。
「何しやがる !? 」
抜かせまいと必死で抵抗するが、それが直江の怒りに火をつけた。
「外しなさいと言っているんです!こんなもの……ッ」
声を荒げられて、高耶はますます激しく抵抗する。
「何だよっ!何でいけないなんて言うんだよ !? 外したくない。離せよ、手!」
「許しません。こんなもの、嵌めさせない……!」
「やだ……っ!」
とうとう指輪を抜き取った直江は、取り戻そうとする相手から無理やりそれをもぎ取って床に投げつけた。
カ……ン
澄んだ音を立てて、銀色の輪は床に転がる。
高耶は、怒りと悲しさのあまり目端に涙さえ滲ませて直江に食ってかかった。
「何でだ……どうしてだよ?あんな大事なものなのに、何でこんなことすんだよォ……!!お前、俺のこと嫌いになったのかよ……」
広い胸板を力任せに叩きながら、きれぎれに訴える。
しかし直江の激昂は解けない。
「何言ってるんです?大事なもの、ですって?……よくも言えたものですね、俺の許しもなくあんなものをつけて……!
誰からもらったんだか知りませんが、あなたは俺のものだ!あんなもの、嵌めさせない!!」
その言葉を受けて、高耶は目を見開いた。
―――――――――、 、 、 、
ようやく、彼には話がわかったのである。
「な……」
だが、驚いたあまり、ろくに言葉も紡げない。そんな相手の状況には気づかず、直江は訴えた。
「指輪を嵌めるなら、俺のために嵌めてください!今すぐにでも用意しますから。
高耶さん、俺のために指輪を嵌めてください……!!」
「何言って……」
見当違いの方向に進む相手の言葉に、高耶はうまく言い返す言葉も見つけられないでいる。それを拒絶と取ったか、直江は一層の激しさで続けた。
「嫌なんですか?俺には指輪を贈らせてはくれないんですか。
ねえ、お願いです。俺だけを見てください。他の何も、触れさせないで……!」
「直江!」
ほとんど錯乱したように訴え続ける直江を、高耶は懸命に正気に戻そうと呼びかけた。
「わかってくれないんですか?どうして。ねえ、高耶さん……!!」
「直江、直江ってば!!」
必死に名を呼んでも、相手は応えない。
「どうしてっ……!」
相手にはわかっていない。
―――どうしたらこの男は正気に戻ってくれるのだろう?
言葉は、呼びかけは効かなかった。
―――なら?
最後に、高耶は無意識に選び取った。
直江の首に腕を投げかけ、その唇を自分のそれで塞ぐ。
それが正解だった。
「高耶さん……」
ようやく顔を離して、直江は相手を見つめた。
高耶はひどく怒った顔をして、それでいてどこか泣き笑いに近いような微笑みを浮かべている。
「馬鹿やろ。お前、忙しすぎて忘れちまってたんだな。こんな大事なこと、忘れるなんて……」
薄情者、と毒づきながら、彼は直江の左手をつかんで、相手の目の前に突きつけた。
そこには、先ほどの彼と同じように、薬指に嵌まった銀色の輪が光っていた。
「昨夜オレにくれたろ?お揃いのリング。一生、共にいるって、誓ったじゃねーかよ―――」
いくら忙しいからって、結婚の約束を忘れてしまうようなどうしようもない男。
それでも、
愛してる―――
fin.
さてさて、今回は、想像上の浮気相手に嫉妬する直江さん、でした(笑)
やっぱ、最低限、あんな大事な記憶くらいは残っていられるくらいの忙しさに抑えましょうよね〜直江さん。
(これは“Transients in Arcadia”の続編っぽかったりします。同じくO.Henryの短編をパロってみました。原題は、“The Romance of a Busy Broker”です。)
いつもながら、読んでくださった方には、ありがとうございます★