期間限定の恋人ならいらない |
「―――はい」 俳優がゆっくりと応答すると、次の瞬間受話器が彼に噛み付いた。 ……というのは勿論比喩であるが、その様子を見守っていた青年には本当にそのように見えたのだ。 「『直江 !? 起きてるわね !? いくら可愛い子がいるからって、この時間まで寝てたなんて言ったらぶっ飛ばすわよ !? 』」 その大声に閉口して受話器を耳から1mも遠ざけた俳優だったが、その状態でも電話の向こうにいる女性の言葉は鮮明に聞き取れるほど。 もっと言うと、そこから5m以上は確実に離れているダイニングテーブルの青年にも、その声ははっきりと聞き取ることができた。 そのマシンガン的な勢いが、青年に『受話器が俳優に噛み付いた』印象を与えたのである。 「……わかっていて邪魔をするな、綾子」 さて、キーンという耳鳴りをやり過ごしてようやく返答した俳優である。 「『あのねえ、昨夜いきなり接続切っといて、何の説明もしないつもり?あ、ところで例のやつ、さっさと持ってきてよ?今夜はあれで一晩飲みたおすつもりなんだから』」 向こうの女性は先ほどよりは幾分おとなしい声量で話を続けたが、それでも彼女のよく通る声はリビングの青年にまでほぼ完全に届いていた。 「説明は後だと言ったろう。翌朝とは一言も言っていない。俺はまだ朝食が途中だ。こちらから連絡するまで待て」 俳優は顔をしかめたまま一方的に言って電話を切ろうとしたが、 「『あんたから連絡が来るの待ってたら日が暮れるわよ!』」 それよりも早く、女性の怒声が響きわたり、こちらにいる男性二人は反射的に首をすくめた。 「『あんたの朝食なんかどうでもいいから、説明しなさい!こっちはもう接続してるから、早く繋いでよ。それと、あの子にも会わせてよね。昨日は話もできなかったんだから、今日こそは』」 女性はその一瞬を見逃さず続きをまくしたてる。 「俺の可愛い人はお前には会わないと言っている。諦めろ」 俳優は気を取り直すとすげなく断ろうとしたが、相手もツワモノである。 「『あんたが会わせたくないだけでしょ!つべこべ言わずに見せなさいよ。減るもんじゃなし』」 「減る」 俳優は間髪を入れずに答えた。そのコンマ1秒単位の素早さに、一瞬相手の女性は反応し損なったらしい。少しだけ間を置いてから、返答があった。 「『……はあ?何言ってんの。あんた、頭大丈夫?いくらぞっこん惚れた人と恋人になったからって、ちょっと異常よ?寝ぼけてんじゃないの?太陽見えてる?』」 「何と言われようともお前とは会わさん」 俳優はあくまで素気無い。 「『ああもう、可愛くない男っ!』」 電話の向こうで女性が叫ぶのが聞こえ、二人の会話を目を丸くして聞いていた青年は、さらに驚いた。 あの女性が昨夜のプラズマテレビに映っていた美女だと察して、あの容姿と現在目の前にある悍馬のような口調とのギャップに目をパチパチさせている。そして、その悍馬を冷静に乗りこなす男の背へ、感心したような視線を送った。 「俺が可愛く見えたらお前は医者にでも行った方がいいぞ」 俳優は表情を全く動かさずにそんな言葉を返している。 その涼しげな台詞に、向こうの女性はますます腹を立てたらしい。 「『うるさいわね!何であたしこんなののマネやってんだろ……』」 「―――ところで例の酒だが、既に発送済みだ。今日中に着くはずだぞ」 俳優は女性がため息をついたところで上手に話題を変えた。 「『あらほんと?それならよかったわ。ふふふ、楽しみ〜』」 女性はつい一瞬前まで憤慨していたことをきれいさっぱり忘れて、嬉しそうな声を上げる。 「それは結構。じゃあな」 俳優は酒に目の無い相手にかこつけて追求をうやむやにすることに成功し、唇の端だけで僅かに笑うと、今度こそ電話を切った。 振り返ると、ひたすら驚いているらしい青年と目が合う。 12/4 comment↓
直江さん、マネージャーに対しては強気&素っ気無い。 |
「驚きましたか。あれは少し元気すぎるんですよ。受話器をあれだけ離していても外まで聞こえる声なんて、そうそうありませんよね」 俳優は苦笑しながら受話器を置いて、飲みかけの生ジュースのもとへと戻ってきながら言った。 「や、それは別に驚かないけど。あのスピードについていける直江がすごいなぁと思って」 青年は首を振って、あらためて感心したように男を見上げている。 「あれにまともに付き合える人間は少ないですよ。つまり、あれが私のスケジュールを仕切っている限りはそこへ割り込める人間はなかなかいないんです。その意味で、貴重なマネージャーですよ。綾子は」 青年は俳優の返事におやと眉を寄せた。それはつまり、魔よけのようなものだろうか。 端午の節句のイワシの頭と同じか? いくらなんでもあんな美人にそれはかわいそうだろう、と眉間に皺を寄せてしまった彼である。 「黙っていれば楚々とした美女だと言えなくもないですが、ひとたびあれを怒らせるとまあ無事には済みませんね。マスコミ関係者には密かに恐れられているそうですよ。『見た目は楊貴妃、中身は西太后』なんてあだ名がついたとか……一体そう言われるに至るような何をやらかしたのか、私は知りませんが」 俳優は呆れ半分、笑い半分といった表情である。 12/7 comment↓
『見た目は楊貴妃、中身は西太后』のマネージャーを上手に乗りこなしている直江さんこそツワモノだと思う。 |
「それはすごいな……」 青年はひたすら感心している。その様子に苦笑しながら、俳優は声を掛けた。 「ところで、そろそろ出かけませんか。昼食までに行きたいところもあるので、できれば早めに出たいんです。準備をしていただけますか」 「あ、そうか。ごめん。すぐ支度するから」 青年は呆けていたことを恥じるように僅かに赤くなって、ぱっと立ち上がった。 小気味よいほど綺麗に空になった食器を、台所へと運ぼうとするのを、俳優がとどめる。 「食器は私が洗っておきますから。どうぞ、部屋のほうへ」 「え、だって家事がオレの仕事だし。直江こそ準備しに行ったら?オレそんなに時間かかんねーよ?」 青年は不思議そうにぱちくりと瞬きをし、俳優を見上げたが、相手はいえと首を振った。 「あなたの仕事は本来、私の恋人です。恋人が支度する間に食器を洗うくらい、私は喜んでしますよ」 くすりと笑って食器を取り上げた男を、青年はなぜかどきどきしながら見上げた。 きれいに締まった腕が食器を取り上げたとき、いかにも力強そうに見えたのが理由なのか、それともその笑みに含まれた、本物にみえる愛情にあてられたのか。 そんな青年の様子を愛しそうに見つめ、俳優はその髪に手をのばす。 「ねえ、この寝癖は可愛いんですが、他人には見せてやりたくないんです。洗面所に整髪剤がありますから、整えてきてくれますか?」 青年のまっくろな髪の後頭部にぴょこんと跳ねている一房を突付いて、俳優は一撃必殺の甘い笑みを浮かべた。 青年は相手の瞳を見つめ、そのまま動かずにいたら額にキスされそうだ、となぜだかそんな風に感じて、慌ててその場を逃げ出したのだった。 その後姿を見送った男が残念、と呟いたことを、青年は知らない―――。 12/13 comment↓
高耶さん、ドッキドキ。次からようやく場面が動きます〜。(あぁ、長い朝ご飯だった……) |
[契約第一日目・朝] 終 プレ契約編はこちらから。 ご感想などいただけると泣いて喜びます……bbsもしくはメールにて是非是非。(←ねだるな) |