期間限定の恋人ならいらない



「最初にもう一度確認させていただきますが……直江様の指名なさった社員はわたしで間違いございませんか」

 一縷の望みを抱いて、青年は依頼主を見つめたが、やはり返答は同じだった。

「間違いありませんよ。色部さんにも話は通してあります。依頼内容についても、あなたが断らない限りは問題ないと言ってくれました」

 普通の顔をしていても好感の持てる容貌を、さらに柔和に見せる微笑みを、目の前の依頼人は心得ている。
 そんな笑顔で頷かれては、青年には反論の余地も無くなってしまった。
 そもそも、直接の上役にあたる色部に話を通してあるというのなら、これは手違いでも酔狂でも冗談でもないのである。ついでに言うと今日はエイプリルーフールでもない。
 高耶は我が身に降りかかった予想外の依頼にただ内心でため息をつくよりほかに為すべきことを見い出せなかった。

「さようでございますか……。では、ご依頼内容について、詰めさせていただきます。
 大まかには、契約日数は三日間、当方に求めるサービスは『恋人代理』、これで間違いございませんか」

「ええ。念のために確認しておきますが、恋人役をしていただくといっても、それは対外的な役割としての話です。そんなに絶望的な顔をなさらなくても、取って食おうだなんてしませんから。安心してください」

「取って、食……いえ!とんでもありません、そのような」

 目を細めてくすりと笑われ、高耶は慌てて首を振った。
 そういうことを心配していたわけではない。この派遣サービスは売春業ではないのだから、肉体を要求されるような仕事は社のほうで断るようになっている。逆に、社員側には、依頼主と恋愛関係に陥ることがタブーとして堅く禁じられている。
 高耶が赤くなったのは、初めてそういう方面のことを想像したためだった。

 これが自分でなくて女性の社員だったら、目の前にある端整な顔をした男に惚れてしまってもおかしくはないだろう。くびになってもいいから、と恋を仕掛けるかもしれない。


 ちらり、とテーブルの向こう側にいる男の顔を見上げ、うっかり目が合ってしまった青年はびっくりして俯いた。一体何に対してそんなに驚いてしまったのか、自分でもわからぬまま。


 一方、その初々しい反応が、対する男には可愛らしく写った。彼は、慌てて手元の書類に視線を落としてしまった青年を、仔犬でも眺めるように細めた瞳で見つめた。
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高耶さん、早くも仔犬モード(笑)
まっくろな瞳が可愛いのです〜



「さて、それでは細かい話に戻りましょうか。
 まずは、……そうですね、私の側がこういう仕事をお願いする理由をお話ししましょう。あなたも不思議に思っておられるでしょうし」
「あ、はい……差し支えの無い範囲でお話しいただけるとありがたいです」

 俯いたきり、どのタイミングで顔を上げるか決めかねてしまった青年は、相手が差し出した助け舟に乗って、顔を上げた。
 再び依頼主と目が合ったが、今度は相手が真面目な顔をしていたため、目を逸らすことはない。
 契約は、最初の詰めが肝心である。一つでももやもやした部分があれば、後々面倒を引き起こしかねないから、今は一字一句聞き漏らさぬつもりで集中せねばならない。

「ええ、それでは。実は私の身辺には迷惑なメディア関係者が張り付いています。それが今回の依頼にかかわっていまして……ああ、ところであなたは私のことをご存知でしょうか。芸名は橘義明ですが」

 依頼主は、本名を直江信綱、そして自ら口にしたとおり、芸名が橘義明である。
 彼は十代の半ばから徐々に才覚を現してきた、駆け出しというよりは長いキャリアを持つ俳優で、ここ数年はお茶の間の人気を一身に集めている。
 先祖代々が純粋な日本人であるとは信じがたい、北欧系の容貌を持つ彼は、顔立ちや体格、そして物腰と語り口の全てにおいて文句をつけるべき点が見当たらぬという、昨今では珍しい好男子なのである。
 端整な顔立ちは往々にして厭味さに転じてしまうことと紙一重の危うさがあるが、彼の場合は浮かべる表情の穏やかさが見る者の悪感情を削ぐようで、不思議と素直に受け入れられるのだ。
 そういう稀有な男であるから、なるほど本人の言うようにメディアが張り付いていても何らおかしなことではない。そのことと今回の依頼とに一体どういう関係があるのか、どうにも想像のしようがなく、二年の経験で初めての事態に戸惑う青年だった。
 戸惑って、何を言うべきか見当がつかずに、青年はただ相手の次の言葉を待った。

「私をご存じなら、ここ最近のワイドショーはご覧になりましたか?たぶん私の話題が取り上げられていたと思いますが」

 俳優は青年の表情から肯定を見て取って言葉を続けた。
 話しながら、少し体を前に屈めて相手の瞳を覗きこむ。
 その瞳を受けた相手側は、俳優の目が綺麗な鳶色をしていることをあらためて思い、その瞳に見つめられているという事実になぜだか落ち着きをなくした。
 どぎまぎとまばたきを返しながら、青年は今朝のテレビを思い出し、取り上げられていた話題を一つ一つ呼び覚まして―――あっと声を上げた。

「ご存じのようですね」
 俳優―――橘は軽く頷いて、机の上で両手の拳を組んだ。
「ええ……つまり、私には隠した恋人がいるのですが、その人の素顔やプロフィールなどをマスコミにすっぱ抜かれるとその人に大変な迷惑が掛かってしまいます。そこで、代わりに矢面に立ってもらう誰かが必要になるわけです。―――おわかりですか」

 組まれた指の綺麗なフォルムに視線を落としていた青年は、俳優の声が自分へ向けられたことに気づくと、はっと顔を上げた。

「とりあえず三日間。三日をやり過ごせば、その人を迷惑の掛からないところへ移動させることができるのです。その三日間を、あなたに依頼したい」

 ゆっくりとわかりやすく発音される言葉はさすが俳優だけある―――と頭の片隅で考えながら、特殊な仕事を依頼された青年は、ようやく見えてきた今回の仕事の理由を、すばやく咀嚼し始めた。
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橘氏はスーパースター!(笑) そして恋人の存在を噂されている……



「―――はい。対外的に『恋人』を演じるというのは、そういう意味ですね。わかりました。承ります」

 何度か瞬きして、諾を口にした彼がおもむろに印鑑を取り出して契約書に押そうとしたとき―――俳優はその手をとどめた。

「直江様?」
 不思議に思って青年が顔を上げると、思いつめたような真剣な瞳が落ちてきた。
「本当によろしいんですか。私は男ですよ。男と恋人同士を演じることに抵抗感は無いんですか?それに、今はまだ大丈夫ですが、もしもメディアが私たちを見つけてしまったら、あなたは私の恋人としてテレビやゴシップ誌に顔が出てしまうんですよ。そうなると精神的にかなりきついことになります。
 本当に、いいんですか」

 青年の身にそういう劇的な変化が起こってしまう可能性は否めない。仕事であれ何であれ、いざ渦中に巻き込まれてしまえば、青年は大変な苦痛を強いられるであろう。

 そうなったときのことを案じ、心から心配している瞳がそこにあった。

 青年は俳優の瞳を見て、くすぐったそうに笑い、
「オレは心臓は強いほうです。妹や父も、まあ驚くには驚くでしょうが、心臓発作を起こして倒れたりはしないでしょう。
 ビジネスですから、それなりのリスクは当たり前です。それに、」
 少し言葉を切って、彼は僅かに首を傾げた。

「オレは、失礼な言い方になるかもしれませんが、今までお話した感じでは直江様のことは好きみたいです。―――三日間、よろしくお願いします」

 はにかむように微笑んで、青年は驚いた顔をしている俳優に右手を差し出した。

「仰木さん……」
「契約成立ですね」
 青年の前向きな態度に予想外の好ましさをおぼえた俳優は、やがてこちらも微笑みを浮かべて手を差し出した。
 指が長くて節のきれいに揃った俳優の手が、系統の違う骨っぽさを持つ青年の手を握る。
 そうしてゆっくりと握手を交わし、二人はあらためて契約書に向き直った。


「ではまず、報酬ですが、三日で五十万ということで色部さんに話を通してあります。必要な経費とは別で、純粋にお礼の金額です。よろしいですか?」

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橘氏は太っ腹!(笑) さて高耶さんはどう反応するでしょう?



 青年は契約書に向かってペンを握り、上から順に項目へ記入しようと手元へ視線を落としていたが、まず第一の空欄で依頼主が持ち出した金額に仰天した。
「五十万 !? 」

 小刻みに震えるペン先を見れば、彼が驚きのあまりペンを握りつぶしかけていることがわかる。
 しかし対する俳優はそんな相手の様子に動じる様子もなく、あっさりと頷いた。
「ええ」
「ちょっと待ってください。三日の仕事なら、どんなに戴いても十万円が限度です。五十なんて多すぎます」
 とうとうペンを手から離して、青年は相手へまっすぐに向き直り、訴えた。
 人気ナンバーワンの俳優などという生き物だから金銭感覚が狂っているのだろうか、と何だか泣きたい気分になりながら。

 しかし、俳優の瞳はあくまで冷静だった。

「いえ、さっきお話ししたように、もしもメディアにすっぱ抜かれたりしたら、それでも足りないはずです。たぶんあなたには想像がつかないくらいの苦痛ですよ。
 そういうものも考えに入れた上での報酬ですから、うんと言ってください。もし何も無かったとしても、男の恋人役をやらされた迷惑料と思ってくださればいいでしょう?」

 彼は何も考えずにその金額を提示したわけではないのだ。青年の上役である色部にも話をして決めた報酬額である。青年よりもずっと長いキャリアを持つ色部が妥当だと保証したのなら、青年が異論を差し挟む理由は無い。

 しかし、青年にしてみればどうにもむず痒い状況だった。

「でも、もし何も起こらなかったら、オレは特に何も仕事をせずに五十万を手にすることになるんですよね。迷惑料もなにも、やっぱり多過ぎますよ。きちんと仕事をしている人に申し訳ないです」

 真面目な勤労青年である彼には、あくまで仮定の一つである未来だが、何の仕事もせずにぼろ儲けというのは耐え難いようである。
 目の前にいる俳優がそれでいいと言って決めた報酬額ではあっても、その金は彼が言うところの『あなたには想像もつかない苦痛』に日々耐え続けて購ったもの。蔑ろにしてよいはずがない。
 俳優という職業にある人間―――特にテレビに顔が出る場合―――は、人気があればあるほど、生活に付随する精神的な苦痛が指数関数的に増すものだ。
 本来の職業である俳優業自体も、決して気楽な仕事ではないが、それ以上に問題なのが一歩仕事場を出た瞬間からつきまとうメディアの目である。プライバシーも何もあったものではなくなり、一挙手一投足にまで様々な憶測が交わされる。あること無いこと好き勝手にばら撒かれ、鉄の心臓を身に付けない限りノイローゼを患うのは確実だ。
 そういう世界で生きながら稼いだ金を、正当な対価も無いのに支払ってしまっていいはずがない。

「……あなたは色部さんの仰ったとおりの人ですね。もっとずるくなっていいのに。本当に好もしい人だ」
 困ってしまってじっと依頼主の目を見つめる青年の様子に、ふっと俳優の目元が和んだ。
「え……」
「それならね、あなたは確か家事が得意項目に入っていましたね。私はご覧のとおり一人暮らしです。しかも、お恥ずかしい話ですが、料理が殆ど壊滅的にと言っていいくらい下手なんです。家でゆっくり食事を摂るほどの時間的余裕がそもそも無いんですけれどね。
 そこで提案ですが、恋人役改め、恋人兼家政婦ということでいかがですか?」

 俳優は微笑みながら契約の改正案を持ち出し、やるべきことを与えられた青年はぱっと顔を明るくした。

 契約、成立。


 明日の朝はきっと、香ばしいトーストの匂いと、熱いコーヒーと、そして『恋人』の笑顔で始まる―――。
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こんな感じでプレ契約編は終了です。次から契約第一日目に入ります〜




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