2nd night: Dec. 9.
[ happiness ]
ハピネス - [ happiness ]



 十六年前から住み続けている、小ぢんまりとした目立たないアパートの二階を見上げ、カーテン越しに漏れる灯りを目にしたとき、青年の背はほっと力を抜く。
 よく鍛えられた敏捷な体は、コンクリートの階段を軽快に上り、突き当りのドアの呼び鈴を押した。
 廊下に面した換気扇からは暖かい湯気が吐き出されており、鰹出汁のよい香りが青年の空腹を刺激する。
 暖かい食卓を思い浮かべたとき、スチールの扉がガチャリと音をたてて開かれた。

「ただいま」
 ドアノブを押して扉を開けている男の懐に飛び込むようにして、青年は中へ踏み込んだ。
「お帰りなさい。寒かったでしょう」
 首にぐるぐると巻きつけてあるマフラーを解いてやりながら、男はいつも変わらぬ笑顔で青年を迎える。
「ああ。急に冷え込みがきつくなったな」
「こんなに冷たくなって」
 男は上着を脱ぎながら首を縮めた同居人を、ひとまわり大きな体で包み込んだ。
「こんなことしたら、おまえが冷えちまうぞ」
 戦う男の顔から、瞬き一つしていつもの恋人の眼差しに戻った青年は、少し困ったように年上の恋人を見上げた。
「大丈夫ですよ」
 すぐに暖かくなるから……と、男はその唇を塞いだ。一瞬、戸惑うように瞬いた青年は、すぐに相手の背に腕を回し、強く抱きしめる。やわらかくも優しくもない互いの体を強く抱き合い、その確かな弾力を全身で感じていた。
 初めて抱きしめた時とは比べ物にならない、強い腕が背中に縋り付いている。その腕で立派に二人の暮らしを支えている青年は今、男の腕の中で一人の恋人に帰って安らいだ。
 呼吸を奪うほどには激しくなく、けれど体温が上がるには充分な密度を持って、二人はくちづけに溺れた。冷たかった唇はすぐにとろけ、瞼がゆるく上下する。時折こぼれ落ちる吐息はゆっくりと熱を帯び、完全にとろける寸前で、甘く尾を引いて、唇は離れた。
 小さな水音が、二人を現実世界に引き戻す。
「じゃあ、夕食にしましょうか」
 専ら家の仕事に徹している男が、腹を空かせて帰ってきた家長のために用意した食卓を指した。その方向へ視線を転じた青年は、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「鍋か」
「ええ。今日はあなたの好きな魚介をメインにしますよ」

 小さなコタツの上に鍋を置き、エビや白身魚を入れてふたをする。煮立つのを待つ間、わずかな湯気を挟んで、そこには静かな沈黙が落ちる。
 大皿の上に並んだ、いつもより豪華な具材を見るともなしに視界に入れながら、青年は専ら家の仕事に徹している男の、すっかり家事に慣れた手を見つめた。
 男は青年の薄給を文句一つ言わず押し戴くようにして受け取り、その範囲内で二人分の暮らしを立てている。かつて山海の珍味を欲しいままに食すことのできた彼は、今はどこにでもあるごく質素な食材を自分の手で調理し、朝は青年が仕事に出かけるのを戸口で見送り、夜にはすべての家事を済ませて夕食と風呂の支度をし、青年の帰りを待つ。かつて大企業を率いていた男が、今は一介の主夫に甘んじている。少なくとも、青年の前では。
 しかし、青年はそれだけではない何かを察していた。
 男はおそらく、青年の知らないところで、何か仕事をしている。
 自身が動いているわけではないが、手足となる人間たちに指示を与えて何かを成している。もしくは、成そうと試みている。それが何であるのか、青年は知らない。しかし、それが青年の知らない男の十五年間に出来上がったネットワークを介しているのであろうことは確信に近かった。

 けれど、青年は何も言わない。

 男が自分の知らないところで何をしていようとも、一言も口にする気はなかった。男の中にぱっくりと口を開いた深い淵を知っている。男がそれを埋めようとしているのであれ、そこに身を投じようとしているのであれ、自分が手を出すべきことでないのだ。男がいざ飛び込むというときには、ただ共に行く。それだけだ。
 望みは唯一つ。この男の傍に在ること。


 ―――二人の間に横たわる沈黙を破るかのように、土鍋がようやく泡を吹き始めた。

「お」
「沸きましたね」
「おし、エビからだ。いただきます」
「はいどうぞ。野菜も残さず食べてくださいね」
「おまえ、オレが幾つだと思ってんだ?もういいおっさんだぞ」
「何言ってるんですか。一回りも若いくせに」
「そりゃ、おまえから見たらオレのほうが若いだろうけどな。この差は永久に縮まらねえし」
「そうですよ。若いあなたについていくために、俺も若くいようと頑張るんです。お陰様で」

 俄かに賑やかになった食卓には、二人の笑顔が弾ける。
 箸が進むと会話も滑らかになり、働き手の青年は外の様子を語り、留守を守る主夫といつものように情報交換をした。


 何度か中身を変えて、鍋の具材が殆ど消費されると、最後は締めの饂飩である。
 冷凍の麺を入れた鍋には蓋をして、沸くまでしばらく待たなければならない。そこに生まれた何気ない間に、二人は湯気を挟んでふと顔を見合わせた。

 二十年も前の幼い頃から何一つ変わらない、綺麗な黒い瞳に出会い、男がふっと笑みを浮かべる。そこに含まれたほんの僅かな艶に、青年はおや、と瞬いた。

「高耶さん、明日は非番でしたね」
「ああ。ひさびさの二連休だ」
「そう……じゃあ、ゆっくりできますね」

 予想に違わぬ台詞と、更なる蜜を含んだ眼差しが、青年の奥に火をつける。

「―――いいぜ」

 ゆっくりと、身の内の炎がくすぶり始めるのを感じながら、青年は湯飲みを一気に空にした。






 この男の傍に在ること、それだけが望みだと言いながら、きっとそれだけでは満足できはしない。この男のすべてを自分のものにしたいと叫ぶ体は、一日たりともこの男なしでは生きていけないだろう。この男の眼差しも、抱擁も、囁きも、くちづけも、すべてが欲しい。


 のけぞった喉元にもたらされた愛咬は、痛みではなく喜び。

 この男のもたらすどんな痛みも苦しみも、至上の幸福なのだから。




Tha bird in his cage ....



[ happiness ]

update : 2006 Dec. 23
re-update : 2007 Dec. 9

去年、イブイブにupした待降節第二夜です。
今回のお話は既存のシリーズではなく、単独のものです。過去と影のあるN氏と、彼を養っている大黒柱の高耶さん。
この雰囲気を気に入ってくださり、続き(とか過去とか)が気になる、という方がいらっしゃったら、ぽちっとご反応くださいv

ありがたくも「過去が気になる」とご反応くださった方がおられたので、
2007年の高耶さんお誕生日企画として連載しました。→『籠ノ中ノ小鳥ハ大空ヲ夢見ルカ?』


ご感想をformにでも頂けると嬉しいです。
もしくはWEB拍手をぷちっと……



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