古き時代―――
龍皇の接吻を受けたものは、不老不死となり、永遠に皇を佐けたという。
次代の龍皇たる青年は、会場を去りつつある一人の男の背中へ、二年前から彼の武術の指南役を務めている人物の名で呼びかけた。
しかし、口にしたときには既に、目の前にある男の姿も歩き方も、探している人物とは全く異なるということに気づいている。似ているといえば、香港ではかなり長身の部類に入るという点だけだ。
果たして、東洋人だとすれば珍しい長身を堂々と大股に運んでいた男は、背後からの呼びかけを最初は聞き流し、そして、周りの人間が応える気配がないことに気がついて、初めて自分への呼びかけだとわかったようである。足を止めて振り返った彼は、呼びかけを発した人物と目が合うと、それが次代の龍皇であることに対しての軽い驚きの表情を浮かべて、慇懃に微笑んだ。
「今、お呼びになったのは、私のことですか?」
丁寧で穏やかながら、初めて言葉を交わす人間に対する適度なよそよそしさを含んだ男の言葉は、彼を呼んだ青年に目を伏せさせた。
「……失礼。人違いをしてしまったようだ」
青年を失望させたのは、男の台詞そのものではなかった。男の口から出た完璧な英国英語が、彼の探す人物の話す大陸訛りの強いそれとは全く異なっていることに、彼は決定的な違いを感じたのだ。
もしかしたら何らかの事情で変装したのかもしれない、と無理矢理な希望的観測を抱いていたのだが、目の前にいる男は、西洋系の顔立ちといい、背筋をぴんとのばした堂々たる態度といい、さらに話す言葉といい悉く、探し人とは別人であることを証明している。
青年は落胆して踵を返そうとしたが、今度は男が彼を呼び止めた。
「顔色がよろしくありませんね。お疲れなのではありませんか」
男は青年の顔に浮かんだ失望の色を見過ごすことができず、つい声をかけていた。
姿を変えた以上、早くこの場を立ち去らなければならないことはわかりきっていたが、それでも、こんな表情をしている相手を放って去ることはできなかったのだ。少し肩を落としたような気弱な様子は、常の彼を知る身には信じがたい光景だった。たかが守り役一人いなくなっただけのことだというのに。
「あちらの椅子で少し休まれては如何です」
さりげなく肩に触れて、広い屋敷のあちこちに設けられている小広間の一つへと誘う。会場内の空気に疲れたり静かに話をしたい時などに客たちが休憩できるよう、このような夜会の日には臨時に小広間を利用して休憩スペースを作ってあるのである。長椅子と卓が置かれているそこには、宴たけなわとあって人影もなく、次代の龍皇がそっと隠れるにはちょうどよい具合だった。
「水をもらってきましょう。そこで楽にしていらっしゃい」
青年を椅子に掛けさせてやった男は、相手に口も挟ませずにまめまめしく世話を焼いた。近くを通りかかった給仕を呼び止めて水の入ったグラスを用意させると、自分は会場へ引き返して立食テーブルから料理を二、三品盛って戻ってくる。すぐに栄養になりそうなものばかりうまく選んでいることを、『使う側』であるはずの人間にしては気が利くものだな、と少し不思議に思う青年だった。
「有難う。お帰りのところを引き止めてしまって申し訳ない」
彼は水の入ったグラスを受け取りながら、男を見上げて軽く頭を下げた。椅子に掛けている彼と会話するために少し身をかがめる格好になっている男は意図的にお道化て、片手を胸に置いてもう片方の手を腰へやる、古風で優雅なお辞儀で応えた。
「お気になさらず。急いでいるわけではありませんから」
それに、次期龍皇に恩を売っておいて損はありませんしね―――と男は笑う。
言葉面とは裏腹に何ら恩着せがましい声音ではなく、だから青年はつられたようにひそりと笑った。それは、心に心配事を抱えている人間がたまたま何か可笑しなことに遭遇して、反射的に一瞬だけ笑うときの笑いそのもの。根本的な解決には全く結びつかない、その場限りの哀しい笑いだ。
―――こんな表情を見たら、ますます出立がつらくなる。
男は音のないため息をついてグラスを傾けている青年を見下ろしながら、胸を突かれる思いでいた。だから、青年がグラスから唇を離して見上げてきたとき、恩を売るなら名刺を出すものだろう……と呟いて問いかけられる言葉を予想していなかった。
「名は……?」
見たこともない、哀しそうな目とぶつかって、どう答えるべきか一瞬迷った。
彼の望む名を口にして、元へ戻るか。それとも。
「私の名ですか……」
呟いたときには、答えは決まっていた。
男はふっと言葉を切り、ほんの僅かだけ間を置いて、答えを与えた。
「……
ナ オ エ直 江
、と」
―――それは四年前、次代の龍皇・景虎を暗殺した男の名。