古き時代―――
龍皇の接吻を受けたものは、不老不死となり、永遠に皇を佐けたという。
何かがおかしい。
そう思ったのは、たぶん、気のせいではなかった。龍の主催するこのパーティの会場へ移動する際に、それは確信に変わった。
あの男がいない。
自分の護衛と武術指南役である男が、このような表立った場に自分を丸腰で出すはずが無いのに。必ずひっそりとどこかに控えているはずの男が、今日この場所に―――いない。
「
ジン フゥ景 虎
……景虎、どうかなさったの?」
龍の現在の当主であるところの母親に心配そうに顔を覗きこまれるまで、自分が険しい顔をしていることに気がつかなかった。
すぐに普段どおりの仮面に張り替えて相手を安心させてやりながら、その裏側でこの事態の理由を目まぐるしく思考する。
イーミィン義 明
が自分の傍らでひっそりと自分を護衛するのは、別段そうしろと母に指図されてのことではない。母が彼に命じたのは、自分に武術を仕込むことのみだ。本来の護衛役は昔からずっと決まった人間が務めていて、たった今もその男の気配は近くにある。
だが、あの男は敢えて自分の身を守る役を買って出た。理由を訊ねてみたが、寡黙な男だ。自分は彼の主人だからというようなことを呟いただけで、細かく説明することはなかった。何にせよ、彼は自分に武術を教える時間以外にも、特に外との接触状態が広がる場合には、陰ながら自分を守っていた。理由もわからなかったが、彼が自分の身を心配しているらしいことだけはわかったので、させるままにしておいたのだ。
だから、彼が今日、急にそれをやめる気になったのだとしても、責める理由はないし、その権利もない。自由意志で行っていたことを自由意志で止めたのだから、それは他人がどうこう言えるものではない。例えば今日に限って眠くて仕方が無いから寝ているというだけのことかもしれない。
だが。
何かおかしいと、そう頭の中に警鐘が鳴り響く。
あれほど、まるで自分の影のように常に傍に在った気配が、今は無い。感じられるところに無いというだけではなく、もっと広い意味で、自分の周りから消えてしまったように思う。
探さなければならない。義明を、見つけなければ。
会場入りすると、一斉に皆の目が自分たちを向く。数え切れない眼差しが集中する。
けれど、その中にあの男が紛れているはずも無いから、大して見る気もなしに一瞥した。
案の定、視界にあの男の黒い長髪は無かった。
期待していなかったのになぜか落胆して、群がってくる人間たちに適当に応対しているとき、―――ふと、視界の隅に何かが映った。
何だろうかとそちらへ目をやると、長身の背中が会場を後にするところだった。
まさか。
義明と同じくらいの背丈が気になって、思わず後を追った。
廊下に出ると、まだそう遠くないところにその人物の背はあった。
「義明!」
と呼んで走り寄ると、その人物は足を止めた。
―――義明が自分の下に来てから二年になる。元は龍の一番下っ端の荒っぽい仕事をするところに居た。ふらりとやってきて、腕前を買われたという。寡黙な男で、過去の経歴は誰も知らない。
見た目にはモンゴロイド東洋人であろうと思われる、黒い髪に濃い茶色の瞳、すっきりとしたくせのない顔立ちをしていて、何か気を引く点があるとすればその身長だけだろう。背を真っ直ぐに伸ばせば190cmに届こうかという、西洋人並みの長身だが、彼は猫背のくせがあって、ちょっと見たところでは180cmといったところに見える。しかしそれでも東洋人としてはかなり大柄の部類に入る。
猫背以外に彼の特徴といえば、肩まであるまっすぐな黒髪を一つにきりりと束ね、それでいて前髪は瞳を隠すほどの長さで放置してあること。その前髪の下にある瞳は、しっかりと見開かれていることが滅多になく、どちらかというと伏し目がちであること。
寡黙な男で、黙っているとその場にいないかのように気配がしないこと。口を開くと、体格と態度から予想されるよりも高めの声で、けれど予想通りゆっくり淡々と話すこと。英語を話させると、ひどく大陸訛りが強いこと。
最初は龍一族の巨大なヒエラルキーの底辺にいた男が、僅か数ヶ月で、次期龍皇である自分の直属にまでのし上がってきたのは、彼の実力と、余計なことを喋らない口の堅さ、陰日なたない働きぶりなど、際立った資質を見込まれてのことだ。
義明は二年前に自分の前に初めて姿を現して、武術の指南役を務めることになりましたとだけ、あの大陸訛りの強い英語で述べた。引き締まった体を見れば、彼が武術に長けていることは見て取れたが、あまりにもゆっくりと静かな口調と態度を見て、本当にこの男が指南役を務められるのだろうかと疑問に思ったことを覚えている。
実際には、彼はたいへん優秀な教官だった。甘く見たことを後悔させるほど。
彼はこの二年間、相変わらず寡黙を通してきたが、彼は彼なりに自分に対して忠誠を抱いているらしい。龍において彼に与えられた役割は自分に武術を仕込むことのみだったのだが、自主的に護衛役を買って出て、それも二年間ずっと続けている。幼い頃からの守り役が優秀なので、危ない目に遭っても義明の力を必要としたことは今のところ無いが、いつもあの男の気配を周囲のどこかに感じていると、安心できた。弁は立たずとも腕の立つ男にこそ、命を預けることができる。
だから、こうして初めて彼の気配の不在を感じた今、途轍もなく嫌な感じを覚えたのだ。
二年間ずっと、決して失せたことの無いあの男の気配が―――どこにもない。
何故……