古き時代―――
ロンワン龍皇 の接吻を受けたものは、不老不死となり、永遠に皇を佐けたという。
肩まである黒の直毛を、根元からばっさりと切り落とした。 華やかなパーティ会場にゆっくりと入ってゆき、その場に溶け込む。シャンパンのグラスをのせた盆を持って歩いている給仕からグラスを受け取り、壁際で一服。
この場に痕跡を残してはならないので、洗面台の上には大きな紙を広げて受け皿にしてある。
ぽたりぽたりと落ちる滴が紙に染みを作ってゆくのを見ながら、無造作に鋏を入れてゆく。
しゃ、しゃ、と涼しい音が起こるのと同時に、水の染みた紙の上に黒い髪の束が落ちてゆく。
それと時を同じくして、一人の男の痕跡が消えてゆく。
短くなった髪に小さな薬壜から数滴の液体を振りかけ、手で全体に馴染ませてから洗い流す。
髪から流れ落ちるのは、黒く染まった湯である。流れ落ちる黒が、一人の男の痕跡を洗い流してゆく。
男にとっては長い過程だったが、時間にすればほんの数分であった。
作業を終えた鏡の中からこちらを見ているのは、亜麻色の短髪をゆるやかに撫で付けた、西洋系の容貌を持つ男だった。
黒の礼装に身を包み、堂々たる足取りで毛足の長い絨毯の上を進んだ男は、誰が見ても今夜の招待客の一人だ。使われる者ではなく使う側に生きてきた者であることを示す、鷹揚な仕草と視線運びは、あちこちにいて客の要求を待つ給仕たちの誰をも不審がらせなかった。この男が、つい数時間前までは自分たちと同じ『使われる側』に属していたとは、彼らのうち誰一人として想像し得なかったのである。
客人よろしくシャンパングラスを片手にした男は、壁際の目立たないところに立って、何気なさそうな様子で会場内をゆっくりと見渡している。
この男が、裏側の世界でその名を知らぬ者の無い名うての殺し屋であることを、悟ることのできる人間はここには一人もいなかった。
―――退くと決めた場面でこんな風にぐずぐず居残っているのは初めてだ。
さっさとここを離れるべきなのはわかっているが、最後に一目、見ておきたかったのだ。今後二度と目にすることはないだろうから。
次代の龍皇の麗姿を―――。
内心に落とした独り言の余韻が消えていったころ、ざわりと会場内の空気が変化した。今夜の夜会の主催者であり、かつ、招待客の殆どにとっては君臨者である龍皇が姿を現したのだろう。
一斉に会場の人間の目が向けられたその場所へ、同じように目を向ける。年齢を感じさせない若々しい美貌を保ち続けている龍の女王は、今夜も美しく装っていた。金糸の龍を巻きつかせた真紅の中華衣装は彼女の見事な体のラインを絶妙に際立たせ、一つに結った髪の艶やかな黒が白磁の肌に映えている。花の開いたような朱唇がゆっくりと動き、招待客への挨拶を紡ぎ出した。
しかし、招待客の視線は美貌の龍皇にのみ向けられているのではない。
彼女の傍らに一人の若い青年が立っている。
純白の絹地に龍や花など絢爛豪華な刺繍を施した中華衣装が、彼のしなやかでいながらよく鍛えられていることがわかる体を包んでいる。この青年こそ、現龍皇の一人息子にして次代の龍皇だ。
しかし、皆が彼を見ているのは、単にそれが次代の龍皇であるからではない。
未だ若いその人自身の持つ魅力が、全ての人間の目をひきつけて離さないのだ。磁力に吸い寄せられるように、目がそちらへ向く。
そんな一同に溶け込んで、会場の隅から彼を見つめる。誰憚ることなく、目を細めて見つめる。傍らにいては、決して不躾な視線を送ることなどできはしなかったが、今だけは。
会場を埋め尽くす人の波の一部になって、飽かず眺めていることができる。
風景の一部になって彼を見つめながらゆっくりと傾けたシャンパングラスは、やがて、空になった。
潮時だ。
グラスを回収してまわっているウェイターに空のグラスを返し、帰り支度とばかりにポケットから手袋を取り出す。柔らかいキッドの手袋を手に通しながら、歩き出した。
メイン会場を出て、歩調を少し速めたとき―――背後に近づく足音に気づいた。
一瞬の判断で、礼装の袖口に仕込んである針を手の中に移動させたが、すぐに元の場所へ戻した。近づいてくる気配には殺気が全く無い。自分に物騒な用がある者ではない。無用の騒ぎならば起こす理由はないので、さっさと引き上げようと歩調を速めたのだが、
「―――
イーミィン義 明
っ !? 」
思いがけない呼びかけに、足を止めざるを得なくなった。
駆けてきたのだろう、僅かに揺れる声で自分を呼び止めたのは、彼だった。