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西日の差し込む質素なアパートには、初めて目覚めた日以来、時が流れていない。 変わったことといえば、申し訳程度にぶら下がっているカーテンの色がすっかり褪めたことぐらいだろう。 部屋の住人は判で押したように毎日同じ暮らしを続けている。最初からそこにあった僅かな家具のどれ一つとして姿を消したものはなく、新たに加わったものもない。 あの日ひとりきりで始めた生活を、きっと死ぬまで続けてゆくだろう。 あの男が自分のために整えてくれた何物も変えたくなかった。最初から一人分しか用意されていなかった食器類だって、一つたりとも割るわけにはいかなかった。 年が変わるたびに否応なしに新しいものと取り替えなくてはならないカレンダーは、だから最初から置かなかった。 今日が何月何日だなんて、考えたことはない。オレは毎日行くべき所へ出かけ、一日中駆けずり回って、眠るだけ。その繰り返しがただ続く。 ―――けれど、今日だけは。 この日だけは明確な意味のある日だ。 今日だけは膝を抱えておまえのことを考えてもいいだろう……? おまえを想って泣いても、いいだろう…… この日にチャイムが鳴ったのは、五回。 チャイムが鳴らなくなってから、十五回目の今日。 そして、もう二度と鳴らないとわかった今日。 「オレはおまえの歳を幾つ越えたんだろうな……」 ぽつりとこぼれた言葉は、もう殆ど消えかかった西日の間をすり抜けて、霧散した。 あの男はオレより十一も年上で、その差はどんなに頑張っても縮まらないと足掻いていたあの頃はまるで昨日のようなのに。 一番最後に見た笑顔は、今はもうオレよりも幾つも年下のおまえだなんて。 「ひどい冗談だよな」 目を閉じればそこにある笑顔は、もう歳を取らない。あの頃のおまえ以上に自分が大人になれたなんて思えないけれど。 「次に会うときがいつか知らねーけど、すっかり逆転しちまってるな。おまえは何て言うんだろうな、オレを見たら」 暗い窓ガラスの中から虚ろに見返してくる男の顔に向かって、笑った。 そのとき――― チャイムが、鳴った。 びくり、と震えた彼は、恐る恐る立ち上がって覗き穴に向かう。 人影は既になかった。 そこに残されていたものは――― 「……ぅ、そだ……」 花束だった。 二十になった誕生日に届けられたのを最後に永遠に終わったはずの、あの花束。 震える手でカードを見る。 『 贈り主の名は無い。 しかしその几帳面な、しかし男らしい字は、見紛いようも無かった。真新しい肉筆のその筆跡。 「―――なおえ!なおえ……!直江だろ!どこにいるんだ。顔を見せろよ、直江ぇ―――!」 彼は転げるようにして道路へ走り出た。 どこにも人影は無い。 ―――いや、ここに無くてもいいのだ。 始まりの場所へ行けばいい。きっとあそこにいる。ぼろぼろになって倒れていた自分を拾ってくれた大きな優しい手が、きっとまたあそこで待っている。 鍛え上げた俊敏な体ではあるが、加減をせずに目一杯の力で走り続けた彼は息を切らして、その場所に蹲った。 二十年の間にすっかり様変わりし、かつて当然のように人が行き倒れていたなどとは到底信じられない、忙しい街角。そんな場所に蹲っている男を不審そうに見ながら、人々は足を止めることもなく行き交う。 やがて、花束だけをしっかり腕に抱えたまま荒く息を繰り返す彼の背後に、長身の影が重なった。 「一つだけ……嘘を書きましたね」 もう会うこともない、と、男は最後の手紙に書いた。その言葉は幸せな現実によって嘘になったが、それを咎める者がどこにあろう。男は、命を捨てないという約束を確かに守ったのだから。 三十代の半ばになった青年は、相変わらず優しい笑みを目じりに浮かべた四十五の男に精一杯しがみ付いていた。 言葉も涙もない。そんなものは十五年の間に疾うに涸れ果ててしまった。 今はただただこみ上げる歓喜に、任せるだけだ。 「愛していますよ……高耶さん。今度こそ、あなただけを愛している……」 男の言葉と共に、青年は深いため息をついた。そして、涸れたはずの涙がまたも溢れ出す。 一番欲しかったもの。 それは、耳元で確かに囁く、たった一言の愛の言葉―――。 青年はそして、囁きを返す。 二十年分の想いをこめた、ただ一言の愛の言葉を。 「なお、ぇ……あいしてる―――」 |