籠ノ中ノ小鳥ハ大空ヲ夢見ルカ?


「……なんでオレのこと、愛人にしたんだ」
「え?」
 男に拾われ、囲われの身となってから一年が過ぎようとしていた。
 その一年間、男は病気や出張で来られないときを除いて一度も欠かさずに毎週金曜日にここを訪れた。一度としてそれを違えたことはない。そして、それ以外の日に訪ねてきたことも、ただの一度もなかった。ここに朝まで居たことも、一度もなかった。どんなに遅く訪ねてきても、食事を摂りながら一週間の出来事を聞いたあとは行儀良く自宅へと帰っていった。
 ただの一度も、例外はなかった。
「ずっと、一方的に金をくれるだけで、オレからは何もできてない。してもらったことを返すこともできない。それなのになんで、オレを愛人にしたんだ。女ならいざ知らず、男のオレじゃ愛人らしい務めもできやしないのに。最初からそんなことわかってたのに」
 ぽつりと、高耶が呟いた。
 ここへ来たばかりのころ、彼は栄養不足のためにひどく痩せていたが、今は衣食住がきちんと整えられているため、すっかり綺麗な体つきになっている。肌の色つやもよい。
 しかし、その表情は冴えなかった。一方的に施しを受けている身の上が彼には耐え難い苦痛なのであろう。
「……妹さんはお元気ですか」
 男の答えは少し違った角度から返ってきた。
「?なんで」
「あなたは毎月、必要最低限の食費を除いて、手当のほとんどを妹さんのところへ送っていたのでしょう?自分の好きなものを買うわけでもなく、遊びに行くこともなく。ただひたすら、節約と送金だけの暮らしだった。違いますか」
 男の瞳は痛みすら感じているほどのいたわりに満ちていたが、俯いてしまっている少年にはそれは見えない。
「……悪いとは思ってたんだけど。余分なぶんは返さなきゃって思ってたんだけど、美弥には金が要る。あいつはオレと違って頭がいいんだ。学校へ行って、いい仕事に就けるはずなんだ。
 だから、全部あいつんとこに送ってた。ごめん。いつか……何とかして必ず返すから。絶対に返すから」
 男は責めているわけではないのに、少年は謝った。そう言って深く頭を下げてしまった。
「違います、そうじゃない。あなたを責めてなんかいないんですよ、誤解しないで。
 あなたはとても立派だ。自分の楽しみを何一つ望まずに妹さんのために一生懸命倹約を重ねて……。私にはあなたが眩しいんです。胸が痛くなるほど、あなたのその綺麗な心が羨ましいんです」
 男が大きな手のひらで少年の頬を包むようにした。
 そっと上げさせた顔が、男の視界に入る。
 少年の黒い瞳は自らへの不甲斐なさと悔しさとに歪み、今にも泣き出しそうに揺れていた。
「泣かないで。あなたが泣くと私はつらくなる。胸が痛くてしょうがないんです。お願いだからそんな顔をしないで」
 男はもう片方の手も添えて、両手で少年の顔を包んだ。

「だって……」
 少年は温かい手のひらに触れられて、とうとう涙腺をゆるめてしまった。
「だって、オレは何もできてない……!自分の力で妹を学校に上げてやることもできない、世話になってる直江には何も返せてない、毎日毎日何もできずに過ごしてるだけなんだ。そんなの、厄介者以外の何者でもない……!」

「違う!」
 男は椅子を蹴るようにして立ち上がった。その突然の行動に目を見開いている少年の前へ膝をつくと、男はまだ細いその体をきつく抱きしめた。

「あなたは私がどんな思いで毎週ここに来たのだと思っているんです?どうしても来られないとき以外は一日だって欠かしたことはない。三日三晩の徹夜の後だって、寄らずにいたことはなかった。
 なぜだと思いますか」
 少年は嗚咽をかみ殺すのに精一杯で返事もできない。一度堰を切って溢れ出した涙はそう簡単には鎮められそうにもなかった。
「あなたに会いたかったんです。あなたに一目会いたくて、それだけのためにいつもここへ来たんです。あなたに迎え入れられて、一生懸命作ってくれた料理を食べて、他愛もない話に時間を費やす、それがとても幸せだから、一日も欠かさずに通ってきたんです。
 あなたの顔を見ないと一週間が終わらない。あなたがここにいてくれるから一週間頑張る気になれるんです。会いたかった。会いたかったんだ……あなたに」

「わかりますか。あなたは何もできないと言っているけれど、そんなことはないんです。ここにいて金曜日に顔を見せてくれるだけで私にはどんなに幸せか。いてくれるだけでいいんです。何も気に病まないで。笑ってください。あなたの笑顔が好きです」

「なお、ぇ……」

 少年は男の言葉が心からのものだとわかったから、よりいっそう胸が一杯になった。
 喉元にこみ上げる熱い塊は消えようともせず、涙はとどまるところを知らない。

「あなたの自由を買ったつもりはありません。閉じこもっていないでどんどん外へ出てください。友達とも連絡を取り合っていつでも会えばいい。ここへ招いてもいいし、外で会ってももちろん構いません。あなたは私の囲いものじゃない。息を詰めないで。あなたは私のものじゃないんです。あなたはあなた一人のものだ。
 私のお願いは一つだけです。金曜日だけ私に顔を見せてください。それ以外には何一つあなたを束縛するものはない。
 どうかあなたの翼を畳んでしまわないで。自由に羽ばたいて。そして金曜日だけは私の所へ戻ってきてください。他には何も言わないから」

「……う」
 少年がしゃくり上げながら首を振った。
「何?何ですか、高耶さん?」
 嗚咽が邪魔をして聞き取れなかったその言葉を男は聞き返す。
「がう……聞きたいのはそんなことじゃない……違う……」
 少年は泣きながら男の背を叩く。駄々をこねる子どものように。
 男は少年の涙を親指で拭ってやりながら、あやすように尋ねた。
「わかってあげられなくてごめんなさい。高耶さん、何を聞きたいの……?」

「……んッ」
 男に返ってきたのは、拙いキスだった。
 何の技巧もなく、ただ触れただけの唇は、涙の味がした。

「直江は、オレのことどう思ってるんだよ……?オレの自由だとかそんなことは後でいい。直江はオレをどう思って愛人にしたんだ?……どうしてオレの顔が見たいって言うんだよ?」
 少年は嗚咽をやり過ごしながら懸命に訴えた。

 男は少年をどのように好いているのか。その真意はどこにあるのだろう。

「……言わせたら、あなたはもう自由ではいられなくなりますよ。それでもいいの。知りたいの?」
 男は少年の目尻を何度も拭ってやりながら、瞳は一度も外さずに見つめて問うた。

「……オレは、わかんねーんだよ……直江の気持ちがわからなくて、自分がどうしたいのかもわからない。知りたい。何でオレを愛人にしたんだ、直江……?」

「あなたが、思っているとおりですよ」
「ン……」
 男は、少年の唇を塞いだ。
 塩の味のする唇を貪り、反射的に抗おうとした体をぴったりと隙間無くくっつけて抱きすくめる。

「んぅ……っ……」
 唇を重ねられ、息苦しくなるほどきつく腕に抱かれて、それでも少年は嬉しかった。自分は今嬉しくて泣いているのだと気づいた。
 キスは激しくて深かった。頭の芯からとけてしまうほど、熱かった。
 男は自分を好きで、愛人にしたのだと……全身が理解した。

「ふっ……」
 息も絶え絶えになった少年がぐったりとしたのを感じて唇を離すと、相手は真っ黒な瞳を愛情にうるませてじっとこちらを見ていた。赤く色づいた唇が濡れて、その隙間から喘ぎにも似た甘い吐息がこぼれたとき、こみ上げる愛しさにまた口づけた。

「は……っ……ぁ……」
 息継ぎのたびにこぼれる息は蜜のように甘く、とろけてしまった少年をそのまま表しているようだった。
 腕の中で、少年は時折びくんと震えては、力の無い手で抱きついてきた。
 少年の唇はまだ少し柔らかく、稚い舌の動きがいっそう愛しさを煽る。懸命に応えようとするその舌が彼の本心なのだと知れて、たまらなくなった。

「なお、えっ……」
 長いキスが終わって、少年ははあはあと肩で息をする。
 満足に言葉も紡げない彼に先んじて、男が口を開いた。
「あなたを愛しています……愛しているから、あなたの顔を見たい。あなたの顔を見るだけで幸せになれる」
 体から力の抜けた少年を片方の手でしっかりと支え、もう片方の手でその頬を愛おしそうに撫でる。
 その手つきにさえ息を上げてしまう少年だったが、彼は懸命に手を伸ばして男の首を抱いた。
「オレは、顔だけじゃいやだ……愛してるって言うなら……だ、ぃ」

 みなまで言わせず、男が言葉を重ねた。
「あなたも私を愛してくれている?」

「好きだ……奥さんも子どももいるけど、直江が好きだ……
 だから、今ここにいるときだけは、オレ一人を見ててくれ……!」

「あなたを私のものにしたい……いい?」
 囁かれた熱い言葉は、ずっと待ち望んでいたものだった。
 他には何も欲しくない、ただその言葉が欲しかったのだと、気づいた。



「きっと……オレはずっと、おまえのものになりたかったんだ……」
 体と心が初めて重ねられたとき、少年は涙と一緒に呟いた。


 こぼれた涙は、好きになった人に愛された喜び。
 こぼれた涙は、好きになってはならない人を愛してしまった嘆き。


 ただ一つ、すべてを忘れさせてくれる呪文は。

「それでも金曜日だけは……オレだけのもの」



―――そして最初へ繋がる

07.07.25
高耶さんの欲しいものはただ一つ。
決して手には入らないものだと、あの頃は諦めていたけれど―――

ご感想をformにでも頂けると嬉しいです。もしくはWEB拍手をぷちっと……

(picture by Cool Moon