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「私はもう何も持たない。地位も、財産も、名もない、ただ身一つあるだけの四十男だ。それでもいい……?それでも、私がほしいと言ってくれますか……?」 人々がせわしく行き交う雑踏の真ん中で、一つになった影は決して離れようとしなかった。 二度と放すまいとしがみ付いてくる青年の耳元へ、この世に舞い戻ってきた男は何一つ昔と変わらない声で囁く。 他の人間には聞こえないほど低くて、けれど相手には必ず聞き取れる甘い声音が確かに自分の鼓膜を打っている。その現実に、青年は眩暈を覚えるほどの幸福を感じていた。 「おまえしかいらない!家はおまえのくれた部屋がある。地位なんていらない。財産もいらない。オレ、金を遣う途がないから給料の殆どはそのまま置いてある。おまえと一緒に暮らすぐらい、オレが頑張る。オレがほしいのはおまえだけだ……!頼む、そばにいてくれ……ッ!」 ほんの少しでも力を緩めたら砂のように崩れ去ってしまうのではないかと恐れて、男の首にかじりついたまま叫んだ。いつもの夢なら、もう二度と目覚めたくない。幸せなまま、眠り続けたい。 けれど、目の前の現実は彼を眠らせてはおかなかった。体が砕けるのではないかというほど強く抱きしめられ、 「ありがとう……」 これまで聞いたことのないような深い色をした答えが返ってきた。 骨がみしみしいうほどの抱擁と、耳元に注ぎ込まれる吐息のような声、その熱さは、間違いなく現実だった。 青年は初めて腕を緩め、確かにここにいる男を見上げて、微笑んだ。 「礼を言うのはオレだ。ありがとう、なおえ……生きててくれて、ありがとう……!」 かつて男が最後に相手に贈ったアパートの一室に、今日は十五年ぶりに二人分の人影がある。 ずっとただ一人で暮らしていた青年は、家具もカーテンも何一つ変わっていない光景に瞠目している男へ、一つしかないカップを差し出した。 受け取った男は中身を一口飲んで、くすりと口元を緩める。昔と変わらない珈琲の味に、十五年という歳月は溶けてなくなるようだった。 静かに珈琲を干した男は、小さなテーブルにコトリとカップを置き、じいっと自分の一挙手一投足に見入っていた青年と目を合わせた。瞳の奥底まで見通して探る必要も無く、彼は自分を求めていた。 「一つだけ……最初に謝っておかなければならないことがあります。高耶さん、私は死ぬまであなたを離れない。けれど、死んでからは同じ場所へはゆけない」 男の台詞は波一つ立たない湖面のように静かで、ゆえにいっそう重みがあった。そこにこめられたものの大きさを薄々感じ取り、青年は僅かに眉を寄せる。 「なぜだ?死んでからも一緒にいるとは言ってくれないのか」 男の眼差しはまっすぐに青年だけを見詰めているのに、どうしてそのようなことを口にするのだろうか。男は何か……何かとても重いものを青年に告白しようとしているのではないか。 果たして、帰ってきた言葉は短くも揺るぎない重みのあるものだった。 「私は地獄行きだから。あなたを連れてはゆけません」 男は淡々と言って、僅かばかり微笑んだ。見たこともない儚げな笑みに、青年は不安を募らせる。 彼を不安にしてやまない、男の恐ろしいばかりに澄み切った瞳は、確かに地獄を見たもののそれだった。既に一歩、この世にあらざる場所へ足を踏み入れた者の達観した眼だった。 「……直江?」 「私は……妻子の命を質に入れて生き延びたんです」 男はそして、彼の地獄を一言で表した。 「な……」 青年は激しい驚愕に言葉もない。男が決して妻子を手にかけたりできる人間ではないと知っている。 昔、ひどい時代には幾つも罪を重ねたと言う彼だが、人を殺めるなど、まして誰よりも大切にしていた妻子をその手で殺すなど、決してありえない―――! 無言のまま、瞳だけで懸命に問いかけてくる相手に男は、頷きとも否定ともつかない微笑を返した。 「あの日、最後の日、私は昔の知り合いに呼び出されて家を空けました。そして、その知人と会っている最中に急に意識を失った。どうやら飲み物に薬が混ぜられていたようです。 目が覚めたときには全てが終わっていました。『私』は一家心中の末の放火事件で死んだのです。本物の私は生きてここにいるのに」 「あれは……じゃあ、あの死体はやっぱり……」 「私の代わりにどこかから見つけてきたものだそうです。けれど、妻子の死体は……本物でした」 「……」 高耶は黙って男の手を取り、頬擦りした。宝物を持つように両手で包んだ手には、以前にはなかった傷跡が幾つも刻まれている。長い歳月の間に男が刻んだ、耐え難い苦悩の証。 けれど、どの傷も男をあの世へと奪い去ることはなかった。男は決して自ら命を捨てはしなかったのだ。 「私の手は死に塗れているのです。本当ならあなたに触れたりしてはならない。あなたまで穢れます」 「直江の手ならオレはいつだって触れる。まさに今、血に塗れていたとしても」 高耶は静かに言って、いっそう大切そうにその手へくちづけた。男はそんな青年を痛みをこらえるような眼差しで見つめながら、言葉を続けた。 「私の命を救おうと図った者たちの中心になったのは、昔の愛人たちでした。彼女たちは私の窮地を知って、あの狂言を仕組んだんです。私は家族もろともに死んだことになり、一生ついてまわる筈だった借金は保険金と自己破産で帳消しにされました。あとは浮いてしまった私の存在ですが、かつて面倒を看たことのある人間たちによって私は刑務所に入れられたのです」 「刑務所?」 「架空の事件の犯人として、無期懲役判決の下った囚人になったのです。それから十五年、塀の中にいました。そして先日、もうほとぼりも冷めただろうということで、模範囚として出所許可が下されたのです」 「そうか……」 高耶は男のつらい独白を最後まで聞くと、目を閉じて静かに涙を流した。頬に伝った涙が、男の手をも濡らしてゆく。温かな涙が、凍りついた脈を溶かしてゆく。 「……あなたは……今度も、私に『赦し』をくれるのですか……?」 出会ったときと同じ、清らかな涙によって『赦し』を与えてくれるのですか。 「オレは……決して天使なんかじゃない。ごみためで死にかけていたただのぼろ人形だ。それを救ってくれたのはおまえだ。おまえこそがオレにとっての救い主なんだ……」 青年はぼやけた視界一杯に男を映して懸命に微笑んだ。 「たかや……」 「おまえのいるところがオレにとっての楽園なんだ。天国はおまえとともにある。オレにとっての地獄とはおまえがいないことだ。 だから、死んでもオレをおまえから離さないでくれ。お願いだから。連れて行ってくれ……」 どれほど自分が幸せか、歓喜に溢れているか、相手に伝えたくて、手のひらを包む手に力が入る。二度と放すまいと、指が白くなるほど握り締める。 「直江の罪も、過去も、オレにくれ。オレの中に全部注ぎ込んでくれ。どんなに重い罪も、二人で分ければいい。おまえの長かった苦しみと、おまえと共にあるオレの今の喜びとを一つにすれば、きっと喜びが溢れるはず。直江……オレにおまえの全てを与えてほしい……」 苦痛も悲しみも凌駕して高耶の顔に広がってゆく歓喜の色を認めたとき、男は瞠目し―――そして、瞼を下ろした。 「高耶さん……私は……もう二度とあなたを離れない」 「オレ……もう三十半ばだから、昔みたいに細くも柔らかくもないんだ。だいぶんごつくなったし、抱き心地は良くないと思う。それでも……いいか」 二人で暮らすには狭い六畳間の寝室に申し訳程度に敷き布団とシーツだけを敷いて、高耶は風呂から出てきた直江の胸板にこつんと額をぶつけた。 「何を言うんですか……そんなことを言ったら私なんて五十前のおじさんですよ。長い間の労働であちこちぼろぼろになっています。昔のようにあなたを抱けないのは私の方です」 直江は目じりに皺を刻み、すっかり立派な大人の男になった高耶の背を抱きしめた。 「……嘘ばっかり。おまえ、昔以上に逞しいじゃねーか」 高耶は胸板の厚さと背を抱く腕の強さに酔いしれながら、小さく反論する。 「この十五年間、体しか使っていませんから。あなたも随分と引き締まった体ですね」 「オレ……刑事になったから。体が資本の商売だろ」 「そうでしたか……」 直江は、戦う男の背中を、いたわるようにそっと撫でてやった。 「なおえ……もう、話はいいから……」 高耶は直江の胸に頬を寄せて、震える声で縋った。 「高耶さん……愛してる―――」 「愛してる……なお、ぇ……」 唇を重ねるのと、折り重なるようにして布団の上へ身を横たえるのと、どちらが先だったのか。 十五年後の逢瀬に、二人は忽ち溺れていった。 腕を回すとわかった背中の無数の傷跡。間近に見る顔に刻まれた十五年の歳月。汗ばんだ肌を重ねてもかつてのように甘い香りに包まれることはない。 ―――変わったことなんて、たったそれだけだ。 他には何も、変わらない。 溢れるほどの愛情を湛えた深い瞳も、落とされる囁きも、体をたどる指も、重なる肌の熱さも、重みも、一つになるための楔の形も。何もかも、あんなにも愛した男のもの。 命よりもいとおしい男が、たった今、またこうして傍に在る。他に何が必要だろう。これ以上何を望むだろう。 「あいしてる……もう、たった今、死んでもいい……!」 この喜びの絶頂に、一つになったまま、死んでしまってもいい。二度と分かたれるくらいなら。 「あなたのもとへ帰りたかった……もう他になにもいらない……」 溢れた涙が一つにまざりあって、頬を流れ落ちてゆく。 たまらなくなって、男の傷だらけの背を掻き抱いた。 「おかえり……おかえり、なおえ……おまえはオレの中へ帰ってきたんだ…… もうどこへも行かないで…… ここでずっと安らいで……」 おかえり…… 直江。
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07.07.27
完結です。
ここから、大黒柱の高耶さんと主夫直江さんの毎日が始まるのでした。
関連の話をまた書けたらいいなあと思います。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
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