籠ノ中ノ小鳥ハ大空ヲ夢見ルカ?


 五年の愛人生活の最後は、初めての旅行だった。
 五年間、毎週金曜日に来て土曜日に出てゆく、その繰り返しだけを忠実になぞってきた男からの思いがけない誘いに驚き、戸惑っているうちに連れ出され、一ヶ月近くも海のそばで遊んだ後に、空港からのタクシーで眠ってしまったのが―――最後だった。
 目が覚めると、見知らぬ家にいた。
 小ぢんまりした、けれど清潔なアパート。これまで住んでいたマンションとは比べようも無い狭さだったが、一人で暮らすには丁度良かった。
 寝室から出てすぐの小さなリビングテーブルの上に、封筒が置いてあった。
 沈む直前の西日を受けた白いその封筒を目にした瞬間、中に何が書いてあるのか本能的に悟ったのは、もう随分前からうすうす気づいていたからなのかもしれない。男の瞳の奥にあった苦しみに。

―――高耶さん
と、冒頭の呼びかけを見ただけで、字がにじんだ。震える手でどうにかこうにか続きを読み始めると、気づかないうちに日はとっぷりと暮れていた。

―――高耶さん
 突然見知らぬ場所で目が覚めて、きっと驚いたでしょう。何も言わずに連れてきてしまって、申し訳なく思います。
 手短に、できるだけ手短に事情を説明します。長くすれば際限がないように思えるけれど、簡単に言おうとすればきっと呆気ないほどつまらない話なのです。
 あなたが今これを読んでいる部屋、そこはあなた名義になっています。貸し部屋ではなく、あなた個人の持ち物です。ここに住むなり、処分するなり、あなたのご自由になさってください。
 あなたには何も残せなかった。先の見えない不安定な暮らしをあなたに五年も続けさせて、最後に辿り着いた結末がこんなつまらないものであったことが、私には悔しくて仕方がありません。

 勘のいいあなたのことだから、もうここまでで既に事情はおわかりだと思います。私の持っていたものは全て手を離れました。……いいえ、全てではありませんね、私の手元には負の財産が残されています。不甲斐ない話です。これから先はずっとこの荷物を負ってゆくことになります。

 一つだけ、あなたに頼みがあります。元の家へは行かないでください。話の通じない人間たちがおそらくはまだ私を探してあの辺りを張っているはずだから。私の愛人としてあそこに住んでいたあなたのことも、追っていないという保証はできません。だから、しばらくの間はこの部屋に住んでいて欲しいのです。二ヶ月、いえ、半年ほどは、そこに居てください。それからそこを出るか留まるかはあなたの判断次第です。
―――

 一枚目の便箋はそれで終わっていた。
 震える手で、青年は二枚目を表に出した。

―――ほら、

という文字が目に入った。

―――ほら、呆気なかったでしょう。たった一枚で書き切れてしまうような話なのです。
 五年もかけて一つ一つ丁寧に積もらせていった言葉たちはどこへ行くのでしょうね。

 あぁ、今あなたが寝返りを打った。私がこれを書いているのは最後の夜なのです。明日の今ごろは、きっとあなたがこの手紙を読むことになるのでしょう。
 こうしてあなたの寝顔を見ていると、不思議と最初に出会ったときのことを思い出します。人は最期に過去のことを走馬灯のように思い出すと言いますが、別れ際にも同じことが当てはまるようです。
 ぼろぼろになって街角に立っていたあなたを見つけたとき、私はこれまでに一度も無かった衝動的な行動に出たのでした。あなたもご存じの通り、私が抱えたことのある愛人の数はそう少ないものではありません。けれど、あなたを連れ帰ったときの私は、生まれて初めてこんなに大切な存在に出会ったのだと喜びに溢れていたのです。
 女たちを抱えたのは激動の時代に幾つも重ねてきた罪のせめてもの償いでした。苦労して、苦労して、それでもどうにもならなかった彼女たちを放っておけなかったのです。私にとっては、どん底を共に生きた妻以上の女はありませんでした。
 けれど、あなたは違う。同じ、苦労との戦いに疲れきった顔のあなただったけれど、あなたは意識も定かでない状態で、自分を抱え上げた男に微笑んで見せたのです。
 おそらくは、無意識のものだったのでしょう。しかしその笑みが私には例えようもなく嬉しかった。どんなに償っても、それを重ね続けても終わりなどはないのだと思っていたあのとき、あなたのくれた微笑みはまるで全てを許してくれる神様の言葉のようだった。澄み切って、顔も知らない救いの手に対する純粋な感謝の思いが、あなたの笑顔には溢れていたのです。
 もういいのだよ、と言ってもらえた気がしたのです。私はそのとき、あなたを腕に抱いたまま泣いたのです。
―――

 二枚目の便箋が終わり、三枚目に至るころには、青年の嗚咽は絶え間なく繰り返されていた。

―――あなたは私にとって、籠の中に入れておく小鳥ではなく、毎週金曜日になると舞い降りてきてくれる天使なのです。
 あなたの笑顔が私を幸せにしてくれました。
 あなたが返してくれた温かな心が私を満たしてくれました。
 よどんだ空気を吸い込んでは吐いた一週間を、あなたが浄化してくれました。五年もの間、ずっと。

 けれど、私にはあなたに何も残すことができなかった。あなたが私に与えてくれた喜びの僅か一欠けらすらも、返すことができないままでした。
 最後の言葉すらこうして手紙で済ますことになってしまい、あなたには本当に申し訳ない気持ちで一杯です。私はあなたが目を覚ます前に発たねばなりません。
 もうこの先あなたと出会うことはないでしょう。

 追伸

 あなたが誤解するといけないので書いておきますが、私は自ら命を捨てるつもりはありません。ひどい時代を何とか生き抜いてきた私です。このくらいのことで諦めはしません。だからそのことは気に病まないでください。あなたを束縛したものは消えてなくなります。あなたはあなたの人生を生きてください。
―――


 別れの言葉を読み終えたとき、青年の手の中に残されたのは、几帳面な男の字が書き込まれた三枚の便箋だけだった。
 その便箋を抱いて、青年は声を上げて泣いた。

 ―――五年かけて愛した男は、たった三枚の紙切れになって消えてしまった。

 週に一度しか来ないとわかっていて、毎日陰膳を供えた。
 夜に来て朝にはいなくなってしまう、そんな短い時間しか許されていなかったから、そばに居られるときはただひたすらそばに居た。
 帰る家も、苦労を共にした妻も、そして血を分けた子どもたちもある男だったから、何一つ欲しがろうとは思わなかった。欲しかった唯一の物は、欲しがって手に入るものではなかったから。
 あんな綺麗な家なんて要らなかった。寂しいくらい広い部屋なんて要らなかった。
 小さな四畳半一間のアパートでよかったのだ。ただあの男がそこにいてさえくれたら。



 直江。

 おまえはオレに全てをくれたよ。

 望みうる全てを。尽きることの無い愛情と、温かな腕と、そして最後に天国みたいな幸せな時間をくれた。

 そして……何一つ残してはくれなかった―――。

 家なんか、金なんか、欲しいと言ったことがあったか。オレはおまえのくれる『物』なんて何一つ欲しいと思わない。
 せめて最後に顔を見て、それで、出てけって言葉で言ってから追い出されたら、どれだけ幸せだったか。

 こんな手紙じゃ、おまえの声が聞こえない。
 こんな字じゃ、おまえの指を感じられない。
 こんな優しい言葉じゃ、おまえを恨むこともできないよ……!





次章 花束

07.07.22
いきなり「別れ」です。。
日陰者の高耶さん。

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(picture by 姥桜本舗)