「五月は休みを取ってくれているんでしたね?」
二人で遅い食事を取り、食器を片付けているときに、男がふと問いかけた。
泡だらけの手を止めた青年がくるりと首を巡らせ、相手の瞳を求める。
「ああ。かなり前から申し込んで、そのつもりで仕事も組んでるからな。ここのところ特に大きな件も無いし、問題なく休めると思う」
「そうですか。では、少し遠くへ行きませんか」
洗い上げられて水切り籠に伏せられていく皿を布巾で拭う手はそのままに、男は青年に微笑みかけた。
いつもの微笑みの中に、何か常とは異なるものが流れたように思って、青年が僅かに目を眇める。しかし、その表情に気づかなかった筈もない相手は何もそれ以上の言葉を重ねようとはしなかった。
「……ま、オレはどこへでも行くぜ。おまえの行くところなら」
青年は芽吹く前の疑問の種を黙って飲み下し、肩越しに視線を戻した。
「じゃあ、土曜の朝は早いですから。そのつもりでいてくださいね」
男は流れた視線を追うように顔を寄せてゆき、耳元に一つ、触れるだけのくちづけを落とした。
その微かな感触だけでは不満だとばかりに、青年は離れてゆく唇を追う。
肩越しの唇はすぐに重なり、脇から回ってきた手が蛇口をキュ、と締めた。
あとは濡れたままの手を首に回してしがみつくだけ。
* * *
機上の人となっておよそ二時間。降り立ったのは北の大地である。
空港からバスに乗り換え、ひやりと冷たい空気と雄大な空の下を、言葉無く走り抜けてゆく。
車窓を流れてゆく景色をただ、流れるに任せて。
そしてバスは目的の場所へと到着した。
「ここ……」
プレートに記された地名を目にして瞳の奥を揺らした青年の背中へ、男がそっと手を触れる。
「俺が二度と元の場所へは戻れないと決意した地です」
男は青年の後ろに佇み、その肩を透かして遠いところを見つめている。
その瞳が映しているものはおそらく、今ここにある光景ではない。
「直江……」
青年は男を仰ぎ見ることなく、―――否、見ることができず、ただ、後ろにある鼓動を聞き取ろうと耳を澄ました。
「俺は一度死んで、ここで十五年を費やした。あなたを想うときだけ、生きていた」
男の鼓動は些かも乱れることはないようだった。
初めて口にする過去にも、揺らぐことなく同じリズムを刻み続ける。その静けさが却って男の苦しみの深さを物語っていた。
既に耐え難いものを耐え抜いた者のみが持つ、硝子のような剛さがそこにある。
「あなたを一目だけでいい、もう一度見たいと願い、それだけが生きる理由でした。あなたゆえに俺はもう一度生まれなおしたんです。この地から。」
男が家族と共に焼かれ、世間から姿を消したのちの十五年を過ごした場所。
失われた者たちを思い苦しみ、自分だけが生きることなど許されないとどれほど強く自らを責めたのか。
いっそ自らの命を絶つことができれば、楽になれただろう。
けれど男はそうしなかった。
*
「オレの……せいで」
青年の顎が震える。
「オレがおまえを待ち続けたから」
生きていてさえくれればいいと、とっくに骨まで焼かれた男を想い続けたから、男は戻って来ざるを得なかったのだ。黄泉の果てまでも、自分が欲深く願ったから。
十五年もの間、苦しみ続けて。こんな地の果てでたった一人で。
何という罪を、自分は犯してしまったのだろう。
罪のあまりの大きさに、涙すら浮かばない。
*
「そうあなたが待っていてくれたから」
男は腕を伸ばした。
「あなたが待っていてくれたから、俺は生きて戻ってくることができた」
震える肩をゆっくりと後ろへ引き寄せる。
「生きて、あなたにもう一度会えた」
頑なに身を凭れさせない青年を、両腕で輪を作ってその中に閉じ込める。
「ありがとう」
輪の中にようやくつかまえた人を、強く抱きしめる。
「俺を待っていてくれて、ありがとう」
*
腕の中で声を殺して震えている人は、自分の不在の十五年もの間、ただずっと自分を待っていてくれた。
黙って置き去りにして、けして死なないと言っておきながら家族を道連れに焼け死んだ、骨まで焼かれた男を。
もうこの世にはいない、亡霊を。
一番幸せな筈の若い時代をたった一人で、時が止まったようにあの日のままのあの部屋で暮らしていた。
決して戻ってこない男を想って、決して二度と手にすることのできない幸せを思って、ただ毎日仕事場とあの部屋を行き来する暮らしがどのようなものだったのか、想像もできない。
同僚がやがて結婚し、家族を増やして広い家に移り住む中、たった一人のあの小さな部屋へ戻ってゆく彼の十五年間がどれほどのものだったのか、鍵穴に鍵を差し込むたびに思う。
―――鍵を開けて扉を押しても、中にあるのは十五年間何一つ変わらない光景。待つ者はない。明るい色彩など一点もない。
自分でドアを閉め、鍵をかけて、やかんをコンロにかけて、一人分しかない食器を並べて。
時間の流れないあの部屋で。
光景を瞼に浮かべるたびに胸に刺さる鋭い棘は、彼の苦しみのほんの一部にすら値しないのだろう。
*
「愛しています」
男は苦しみも悲しみもすべてを飲み込んで余りある想いのすべてを込めて、囁いた。
「もう一度生まれなおしたこの日、この場所で、あなたに誓う」
あなたを愛しています。もう二度と、離れない。
「長い間、あなたを苦しめた。それでも俺は今が幸せでならないんです。どれほどあなたを苦しめたか知れないけれど、今こうしてあなたと共に在れて俺は幸せなんです。あなたが俺を待っていてくれて、本当に嬉しいんです」
詫びるためには何度この命を捧げても足りないけれど。
「ありがとう。俺のために生きてくれて」
こんな身勝手な台詞を口にする資格など持ってはいないけれど。
「あなたの苦しみをすべて埋めてしまうほど、俺に力があるかどうかはわからないけれど」
あなたが欲しいと言うものは一つしかないから。
「この命も、時間も、すべてあなたのものです」
*
青年は、魂の底までもありったけを注ぎ込んだ男の声が耳に染み入ってから、随分長い間、唇を噛んでいた。
「―――ばか」
そして、ぽつりと言葉が落ちる。
続いて、大きな雫が。
「今がどうしようもなく幸せなんて、そんなもの」
オレの台詞だ。
「オレの方がずっと、おまえよりずっと、幸せに決まってる」
自分を抱く腕に爪を立てて、ジャケットに皺が寄るほど強く握り締めた。
「このばかやろ……どこに目を付けてやがるんだよ……っ」
ぱたぱた、と落ちる雫が男の靴を濡らす。
「その馬鹿の名前を、呼んではいただけませんか……?」
濡れた頬に頬を寄せて、男が囁く。
「直江……オレの名前を呼んで」
歪んだ声で、焦がれ続けた男の名を呼ぶ。
「高耶さん……」
その囁きをどれほど求めたか。
名前を呼んでいるだけなのに、男の想いがすべて伝わってくる。
「直江……」
それ以上の言葉は何も要らなかった。
互いの名を呼ぶだけで、至上の幸福を得ることができるのだから。
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