白化梅

「直江、これ……っ」 翌朝のことだった。 滞在先のホテルで遅い朝食を摂っていた二人は、新聞の一番後ろの頁の片隅に小さく掲載 されていた記事に、はっと目を見張った。 普段、新聞を読むときは、まず第一面をさっと見てから、ひっくり返してテレビ欄へ移り、 そして最終頁から順に前へ戻ってゆくという順序になっている高耶が、先にそれに気づいた のだった。    『男性の変死体発見     ―――二十日午後五時頃、京都市上京区鳥居前町北、雁埜苑内で男性     が死亡しているのが見つかった。所持品などから、男性は、明石市在住     の住宅建設業勤務、妹尾芳彦さん(34)。妹尾さんの首筋には何か鋭い物     で切られた痕があり、地元警察は殺人事件として捜査を進めている。』 「雁埜苑……」 「あのときの男だよな……」 高耶の頭の中で、昨日の光景がよみがえった。 たしか自分たちが苑を出たのは三時過ぎだった。あのときすれ違った男が、おそらくこの記事の 妹尾芳彦なのだ。あの後、この男がすぐに殺されたとしても、他人に発見されるまでには 時間がかかったはずだ。あそこは夕方に近所の人が花を生けに来る以外は殆ど人も来ない ひっそりした場所だから。 発見されたのは五時頃とある。けれどおそらく死亡時刻はもっと前だろう。自分の見た男 がそれならば。 「……高耶さん?」 考え込んでしまった高耶に、直江が眉を寄せた。 「気になるんですか。昨日の男の死因が」 「……何か引っかかるんだよ。これ、単なる殺人事件じゃねーと思う。 昨日すれ違ったとき、お前も感じなかったか?かなり微妙だったけど、匂いがしただろ」 こちらも眉間に皺を寄せて、高耶が答える。 直江は小さくため息をついて、肯いた。 「えぇ。そうですね。……あの男の魂は、我々と同じ匂いを持っていた」 「そう。浄化してない部分があったんだ。幾つか前の記憶を、残していた」 ますます皺を深くして、唸るような声で呟く相手である。 直江がため息をついたのは、その後に彼が何を言い出すかが見えていたからだった。 「……おしっ」 高耶は少し黙って考えた後、ふっと頭を振って、向かいの直江に目を向けた。 「これ食ったら行こう。どうも気になる」 語気は強くないものの、意見を差し挟む余地もない断定的な宣言に、直江は目を伏せて 心の中で盛大なため息をついたのだった。 「ほら、返事!わかったのか?」 うんともすんとも答えを返さない彼に、愛しいご主人様が確認の声をかける。 直江は再び、ひそやかなため息をはいた。 ここではいと言ってしまえば、折角の休暇がふいになってしまうことは確実。 今日は昨日よりずっと天気がいい。 山にでもドライブする予定だったのになぁ、と後ろ髪を引かれつつ、それでも忠実な彼は 結局答えるのだった。 「ええ。―――どこへでも、あなたの行きたいところへ」 「うわぁ、すげー人……」 蟻と野次馬は、どこからともなく現れる。 そのことをすっかり失念していた二人だった。 雁埜苑は、昨日のひそやかさが嘘のように、人だらけだった。ちょうど今、鑑識が今日の 作業を始めたところだとかで、物珍しさから人垣ができている。 世の中、ヒマな人間が多いなぁ、とほとんど感心している高耶だったが、直江に言わせれば 自分たちもその暇人の一人、いや、二人である。 黙って苦笑するよりなかった。 「何でもいいけど、今鑑識が中にいるんだよな。……てことは、入れねー?」 「そういうことになりますね。しばらく待ちましょう」 折角朝から来たのに、とぼやく高耶に、直江はさりげなく腕を回して人込みから抜け出した。 お茶でも行きますか、と天満宮の方を指して彼は尋ねたが、相手にはそんな風にして時間を 潰す気はさらさらないらしい。 「別に、現場に入るまでにもできることはあるだろ」 彼は、さあ情報収集だ、と言って、集まっている野次馬に事情を聞き始めた。 「何でも、現場はひどい有り様だったらしいよ」 「死んだ人、首を切られてたんやろ?血の海やわ」 「実際に中をご覧になりましたか?」 「ううん。ここには目撃者はいいひんよ」 「警察に事情聴収されてるんやね。確か」 「え?昨日済ませたんじゃないんですか?」 「昨日はもう真っ青になっちゃって、それどころじゃなかったんよ。無理あらへん。しばらく 夜も眠れへんのやないかな」 「そうでしょうねぇ。ところで、どういう状況かご存知の方はおられますか?」 「あぁ、それなんやけどね……どうも、ヘンな死に方らしいんよ」 「ヘン?」 「その……凶器?それが何か、普通の刃物じゃないとか。はっきりしいひんらしいわ」 「はっきりしない、ですか」 「そう。何ていうかね、人間の仕業じゃなさそうな、って警察の人たちが話してるのを聞い たわ」 ―――人間の仕業じゃなさそうな――― 「―――あなたの懸念が的中しましたね」 二人は、天満宮前の有名な茶処に入っていた。 お濃茶を二つ注文して、藍染の割烹着に白い襷の店の者が下がると、直江はゆっくりと話に 入った。 「だな」 言葉少なに高耶は茶碗を揺すっている。おしぼりと同じ時に出されたそれは、さすがという べきか、梅茶だった。 微妙に塩辛いそれを黙って喉に流し込む。 「涙に似てる……」 ぽつりと、高耶が呟いた。 誰の、とは直江は尋ねない。 二人とも、おおよそのことは見当がついていたから。                       、、、          、、、、、 雁埜苑の空気が違った。昨日とは明らかに違う、普通の空気。もうあそこには誰もいない。 そして、地元の人たちの話――― 『あれは、取り殺されたんじゃないかって、皆言ってる』 『花が……』 『白い花が、元の紅梅に変わったんだって』 『雁の恨みが消えたって』 ―――雁の望みが、果たされた…… 「あれが、件の男だったんですね」 椀の水面にたゆたっている梅の花に視線を落としたままの高耶をじっと視界に捉えながら、 独り言のような調子で直江は言った。 雁埜苑に近づいただけで感じ取れた、強い痕跡。    『待っておりました……おまえさま……!』    『済まなかった。本当に済まなかった……!』    『おまえさま……』    『雁や……雁……許しておくれ……お前を信じられなんだ私を……』    『何も仰らないでくださいませ……雁はこうしておまえさまが逢いに来てくださった    だけで、十二分に幸せでございますれば……』    ―――そう、ここへ来てくださった……           モ ウ、 ハ ナ サ ナ イ ―――    男の苦しみは一瞬だったろう。    おそらく、何もわからないうちに意識が終わりを告げたはずだ。    ―――雁の念に喉を引き千切られて。 二人には、その一部始終が視えた。    噴水のように噴き出す、真っ赤な血。    古木を染め上げる。    かつて、雁の血がそうしたように。    やがて地は血の海になり、紅が滲みこんでゆく。    滲みこんだ赤を吸い上げて、白い梅は紅に花開く。    ―――そうして、雁の魂は体から引きずり出した男の魂を腕に抱いた。    もはやそこには昨日までのような哀しみの色はない。    ただ、愛しげな眼差しで、抱いた男を見つめている。    満足そうに微笑んで、彼女は目を閉じた。 ―――もう、どこにも彼女はいない。 残留思念はすべて解けた。男の魂を連れて、霧散した。 ―――もう、古木に白い花は咲かない。 「どうして、信じられなかったんだろうな……」 どろっとした苦い濃緑を乾して、高耶は呟いた。 いらえはない。 返事を期待した言葉ではなかった。      答えなんて、わかってるくせに。 「愛していますよ……高耶さん」 随分経って、直江が言った。 まるで対応していないその返事の唐突さに、高耶が顔を上げる。 視線が絡み合う。 ―――相手のそこには、甘さはなかった。 「愛しすぎて、おかしくなりそうだ」 自分が恐ろしい。 あなたが誰か他の人間に目を向けたら、俺は何をしでかすかわからない。 あなたが友人と話しているのを見るだけでさえ、胸が焦げる。 他の人間に向けられる笑顔がどれほど恨めしいか知れない。 「こんなだから、わかる……」 信じている、いないの問題ではない。 ただ、この狭量な胸には、他のものを受け入れる余裕がなかったのだ。 あなたで一杯。 あなたが他の人間に目を向けたなんて聞いたら、パンクする。 もう何も考えられなくなる。 頭の中が真っ赤になって、気がついたらあなたに馬乗りになってその頸を両手で締め上げて いるだろう。 もう誰にも奪われることのないように――― 「俺はとうに狂っているのかもしれませんね……」 目を伏せて、直江は苦しげに眉を寄せた。 けれど、目の前の人はさらに苦い顔をしている。 「……お前はなんにもわかってねぇよ」 高耶が卓の下で足を伸ばして、相手の足にこつんとぶつけた。 「高耶さん?」 訝しげな表情に、 「おかしいのはオレの方だ……。 お前がそんな風にオレを独占したがるのを、至福の喜びだと感じてしまう。 嫉妬されて殺されても、オレはたぶん、歓喜に包まれているだろう。 お前の手で心臓を貫かれて。お前に独占されて。お前だけを見つめて。 お前が目を細める。眉を寄せて苦しげに息をはく。名を呼ぶ。私だけのものだ、と囁く――― そのまま死ねるなら。 それはきっと至福の時間だ……」 半ば目を伏せるようにして、そんな告白が為された。 直江は声もなく、目を見張っている。 「……だから、苦しそうな顔すんな。殺されてもいいんだ。お前になら。そのときは躊躇わないで いい…… オレを、お前だけのものにしてやってくれ―――」 傍から見れば、おかしいとしか言えないだろう。 それでも、それが自分たちのありかた。 お互いが、互いに狂ってる。 そうやって、縋り合ってきた…… 直江がゆっくりと微笑んだ。 「―――残念です」 その唇から発せられた言葉に、高耶は思わず目を上げる。 残念って、一体どうして…… !?  強張った顔に、直江がふわりと笑みを向ける。 「非常に残念です。ここが外でなければよかったのに……」 そうしたら抱きしめられたのに。 「な……んだ、そういうことかよ……」 ほっと小さく息をはいた高耶は、気を取り直すと、本気で残念そうな顔をしている相手に向かって にやりと笑んだ。 爆弾発言をぶちかます。 「―――」 直江の顔が意外さに固まる。 それを見て、高耶は楽しそうに声を上げて笑ったのだった―――。    ―――今からでも遅くはない。部屋へ戻るか……? その後、二人が早々に宿泊先へ帰ったのかどうかは、定かではない。         終 <<前編      ―― ――― ―― ―― ――― ――



from KAI ... やれやれ。ようやく後編までこぎつけました。
さて、このお話なのですが、もちろん白化梅伝説はフィクションです。
ただ、似たような伝承は(日本国内ではないのですが)実在していて、
それをもとにさせていただきました。
ランカウイという島に伝わる「マハシュリ王妃」伝説がそれです。
王に不貞の疑いをかけられた王妃は、処刑されてしまうのですが、
その際に白い血を流して潔白を証したというもの。
島内には彼女の魂を慰めるために白い石づくりの美しいお墓が建てられています。

ではでは、ここまでおつきあいくださってありがとうございました★


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