Blue Moon
「……ねえ、カゲトラ。カゲトラ!」
全身を取り囲む蒼穹を亡羊と見やりながら、どこか遠くへと思いを馳せていた長は、背後からの呼びかけによって現実へ引き戻された。
「……え?」
「え?じゃないわよ。何べん呼んだと思ってるの?」
ようやく振り向き、不思議そうに瞬いた相手に、声を掛けた方は気分を害した様子だ。仲間のうちでも一際美しい毛並みが僅かに空気をはらんで膨らんでいる。
「すまない」
長は、少しせっかちな性質の相手とはいえ、長く待たせたことは事実だからと短く謝った。相手は実のところそれほど怒っていたわけではなかったようで、ふんと鼻を鳴らすといつもの笑顔になる。
「まあいいわ。で?何をいつもそうやって考え込んでるのよ?」
「そう見えるか?」
「目を開けたまま寝てた、ってわけでもないでしょ?」
長は相手の切れ味鋭い切り込みに、くすりと笑った。
「何よその笑い方。あんたいつの間にか全然かわいくなくなったわね」
大人が子どもを見るような微笑を受け、相手はむっと鼻先に皺を寄せる。
「いつまでも山猫如きの獲物にされる子どもじゃいられないからな」
「何言ってるのよ。とっくに仲間の誰より強くなってるくせに」
随分と昔のことを持ち出して皮肉気に口の端を吊り上げた長に、相手はどこか噛みあわない会話を訝るような不審の色を瞳に浮かべた。
「それとも、あんたでもまだ適わない相手でもいるっていうの?……何かあった?」
ハッと瞳の奥を鋭くし、長の真紅の瞳を見つめる。
「さあ、オレが適うかどうか」
長はすっと目を逸らし、蒼穹にぽかりと白く浮かび始めた銀盤を振り仰いだ。
「適うかどうかって……そんな強い相手いるはずが」
相手もそれを追って視線を上へ流し、長の見ているものが何であるのか気づいた瞬間にすべてを悟った。
すべてを見てきた月が、今日も物言わず自分たちを見下ろしている。
「……会ったの?」
「ああ」
問いも、いらえも、簡潔だった。
「何が、あったの」
僅かに伏せられた長の耳を舐めてやりながら、相手はゆっくりと問うた。
「何も。何もされはしなかったし、何もできなかった」
長は母親に毛づくろいをされるような穏やかな表情になって、半ば目を閉じている。
「『できなかった』?」
おかしな言い回しを聞きとがめ、相手が首をかしげる。森のどの生き物も適わない強い長が手も足も出ないなどということが有りうるのか。
しかし、長の返事は至って淡白だった。
「オレは名をつけられたから」
「真名……」
相手は毛づくろいの動作をすっかり疎かにして呆然と呟いた。
名を与えられた者は、名を与えた者の意に逆らうことはできない。それが『真名』という呪だ。だからこそ、どの種族でも、新たに生まれた仔に名をつける権限は長のみに許されている。
しかし、目の前にいるその長は真名の意味も知らぬ幼い頃に、別の者に名を与えられたのだという。その名は無論、仲間の誰も知りはしないし、そもそも長に『カゲトラ』という以外の名があること自体を知らない者が殆どだ。
もしその事実が他の者たちに知れたら、どれほどの混乱が起こるか、彼女には想像すらできなかった。何しろ、この長に名を与えたのは―――人間の男だったというのだから。
彼らにとって唯一といえる天敵が、彼らの長を意のままにすることのできる呪をその手に握っている。
「カゲトラ……っ」
その恐ろしい事実に殆ど恐怖した彼女は、しかし目の前で微笑む長の表情に出会って、詰問の遣り場を失った。
長は決してその事実を恐れてもいなければ、疎んじてもいない。
むしろその瞳に浮かぶものは―――
「カゲトラ……」
彼女のトパーズの瞳は、見開かれたまま、動きを止めた。それを受ける真紅の双眸はおそろしいほどに澄み渡っている。一点の曇りもない。
迷いの欠片もない。
「あの男の唯一の望みは果たされた。オレたちのこの毛皮など、もう用はない」
微かな風が、長の体を覆う銀色の毛をふわりと揺らめかせた。その煌めきは仲間の誰よりも美しい。この毛皮を目にする人間がもしいれば、どれほどの値をつけてでも手に入れたがるだろうと思わせる。
「―――毛皮に用がないのは……あんたも同じ?」
いとおしげに月を振り仰ぐ長のその背中に、彼女は小さく問いかけた。この美しい毛皮を脱ぎ捨ててまで手に入れたいものが、長にはあるのだと悟って。
小さな呟きは、夜風に流されて切れ切れに舞った。
「……ん?」
何か言ったのか、と振り返った相手に、彼女は否と応える。
*
あれは何ヶ月前のことだったろうか。
蒼い月を見上げて記憶を馳せていた彼女の前には、真紅の瞳をした仔らが駆け回っている。
ころころとじゃれあう仕草はまだまだ子どもだが、体の大きさはそろそろ彼女に追いつこうとしていた。
命の成長は眩しいばかりに明るい。ついこの間芽を出したばかりの木が、太陽の下たちまち葉を広げ枝を伸ばして一人前に陰を作っているのと同様に。
では、月の下に佇む大きな影はどこへ向かうのだろう。
蒼い月はまぼろしだという。同じ月の間に二度巡ってきた、まぼろしの月。
ひときわ美しい銀色に輝く毛皮が、ふっと消えてなくなったのは―――
どちらがまぼろしなのだろう。
瞬いた彼女の視線の先には、先ほどと変わらず長の姿がある。あの見事な純白の毛並みが、夜風をはらんできらきらと輝いていた。
闇に浮かぶ蒼い満月には、口には出せぬ儚い願いが映し出されている―――
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