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7. Thunder Moon
はやて
疾風との暮らしはすっかり定着していた。そろそろ場所を移って、『彼』を探す旅に戻らねばと思い始めたころ、季節は夏だった。。
約束どおり白い獣を一頭も殺さずにあと数ヶ月を過ごしたら認めると彼は言っていたが、肝心の本人を見つけないことには話が進まない。あの崖の向こうにいる可能性が高い以上、それを排除する道はないだろう。彼らのテリトリーに踏み込んだらまた戦いが始まることはわかっていたが、無論それで気を変える筈もない。
満月の日を選んで、仮住まいの小屋の解体作業にかかった。あの崖には丈夫な丸太を渡して簡単な橋をこしらえたので、安全に渡ることができる。すっかり大きくなって成体と変わらない頑強さを持つはやても、背に建材をくくりつけて運搬を手伝ってくれるので、思ったよりも早く解体した小屋の建材や荷物を運び終えることができた。
ちょっとした広場のようになった場所を新しい住処と定め、建材を土台から組み直していると、俄かに空模様が変化し始めた。
「嵐になるな……急ごう」
丸太を組む男の傍らで、丈夫な顎で縄を引いて固定作業を手伝うはやても、立派に張ったひげをひくひくさせて天候の変化を感じ取っている。
移動生活に慣れた男は手早く建材を組み立ててゆき、急ごしらえながら小屋の形を成したころ、とうとう激しい雨が地面を穿ち始めた。
一端を柱に巻きつけた縄のもう一端を引っ張り、地に打ち込んだ杭にぐるぐると巻きつけて最後の固定作業を終えたはやてを中へ呼び入れ、びしょぬれになった体を拭ってやる頃には、外は凄まじい嵐の様相を呈していた。
男は小屋の真ん中に石を組み、簡単なかまどをこしらえると、火を熾した。野生の獣ならば火には決して近づかないが、人に育てられたはやてにとっては慣れたぬくもりである。嬉々としてその傍らへ寄ると、ぺたりと腹ばいになって眠る体勢になった。しばらくぴくぴくあちこちを向いていたひげがやがて静かになる頃、男も藁を積んで布で覆った寝台に腰を下ろし、目を閉じた。
不意にはやてが耳をピンと立て、鋭く鳴いた。
随分眠ったように感じたが、実際にはほんの僅かな間だったのだろう。かまどの火勢は先ほどと殆ど変わらない。
「外に何かいるのか?はやて」
戸口へ視線を向けたはやては腹ばいから身を起こし、四肢で立ち上がったが、警戒や敵意はみせていない。
激しい雨風に閉口しながら戸を開けた男が外へ目を凝らすと、嵐の中に佇む大きな白い獣がいた。
男はそれを視認した瞬間、駆け出していた。獣はいつの間にか少年に姿を変えて、男の腕に身を投げかける。
半年振りの抱擁だった。
激しい雨の中、一つになった影は離れようとしなかった。はやてが吼えなければ、永遠にそのままだったかもしれない。
男は少年を抱えるようにして小屋へ戻った。
体の芯まで冷え切ってしまった二人はまろぶようにして火に当たり、男は体に貼り付いた服を脱ぎ捨てた。
奪われた体温を回復しようと一つ毛布にくるまって肩を組み、肌を寄せ合う。一向に温まりそうにもない冷たい肌が触れ合い、二人はどちらからともなく顔を寄せてくちづけた。
「この方が手っ取り早いですね」
少年の体を掬い上げて寝台に横たえながら、男が笑った。もの言いたげな少年の視線の先に、行儀良く前脚を揃えて座り、かわいらしく首をかしげているはやての姿を見つけ、
「しばらく眠っていてくれ、はやて」
と男は少年の体を隠すように毛布を引き上げた。
はやては承知とばかりにその場に丸くなり、目を閉じた。
「名を与えたのか。はやて……いい名前だ」
聞き分けのいい仔を視界の隅に入れながら、少年は覆いかぶさってくる男の首に腕を回す。
「ええ。……話は後でね」
冷たい額をくっつけた男はそれ以上の問答を許さず、嬉しげにほころんだ唇を塞いだ。
*
「熱い、な」
すっかり汗をかいて、湯気をたてそうな自分たちの体に、少年はため息と共に呟いた。
「ようやく人心地つきましたね」
腕の中でだらりと力を抜いている少年のしっとりとした肌を、男はいとおしそうに撫でている。毛づくろいされているような気分で、少年は気持ちよさそうに頭を揺らした。そのうちにごろんと寝返りを打ち、ふと目に入った光景にくすりと笑う。
「はやてのやつ、寝たふりを決め込んでるな。気の利くことだ」
丸くなって瞼を下ろしたまま行儀良く沈黙を守っている仔が、ぴくりとひげを揺らした。
「育て方がいいんでしょう」
それを横目に見ながら、男が少年の背中に覆いかぶさるように身を寄せる。
「よく言う。……でも、ありがとうな。大事に育ててくれて」
胸の辺りを抱くように回された手に触れ、少年は指の間に自分の指を潜り込ませた。
「やはりあなたが置いていったんですね」
「ああ。おまえが気づかなかったらつれて帰るつもりだったが」
「俺が気づかない筈がないでしょう」
「ああ。たいしたもんだよ、おまえは」
少年はごろりと男に向き直り、猫科の動物としか思えない艶やかな瞳で相手を見上げた。
「はやてを見れば、おまえがどんな風に育てたかがよくわかる」
「はやてといえば、先月他にも三匹の仔を見ましたよ。あの四匹はあなたにそっくりですね」
しなやかな腰を抱き寄せ、首筋に鼻をうずめて半ば呟くように言った男に、
「オレの仔だからな」
少年は事も無げに答えた。
男の動きが止まる。
「どうかしたのか?」
静まりつつある体にもう一度火をつけなおそうとして動いたはずの男が何故か手を止めてしまったことを、少年は訝しんだ。具合でも悪いのだろうかと眉を寄せたとき、その首筋のあたりで男が呟いた。
「あなたは誰とも番わないと言っていたのに」
その声に含まれた悲しげな響きに、少年が少し目を見張る。
「誰ともとは言ってない。オレはおまえと番うと言っただろう?」
何を今更言いだすのだろうと不思議そうに、少年は顔を横へ向けて男の方を見た。
「でも、この仔たちを生んだ相手がいるはずでしょう」
男は琥珀色の瞳に紛れもない寂寥を浮かべている。
「なんだ。そういうことか」
少年はしかし、急に笑い出した。男は一層悲しげな瞳になる。
「あなたからすれば、これは俺の我侭でしょうが……。長は跡継ぎを残さねばならないという理屈はわかっています。でも」
愛する相手が他の者と子を成したことは、どうしても悲しいと感じてしまう。自分たちが違う種族同士であることを思い知らされた男は、瞳を曇らせている。
少年はそんな男の両頬を手のひらで包み、首を振った。
「いや、そういう意味じゃない。おまえ、勘違いしてるんだ」
「何をです?」
「あれはおまえの仔だよ。オレとおまえの」
少年の台詞を、男は数秒間理解し損ねた。やがて呆然と呟くのは、
「……しかし、あなたは男でしょう?」
たった今も確かめあった体は、共に男のはず。
「オレたちの種族では、長には性別がないんだよ。だから、仲間とは番うことはないし、仔もできない。例外が人なんだ。人の姿のときだけは、性別があるからな。おまえも知ってのとおり」
少年は―――今は人間の『男』の形をしているその彼は、唯一の番う相手に彼らの種族の事情を語った。
白い獣には稀に、満月の夜に人間の形になれるものが生まれる。それは複数同時に存在することが殆どないので、便宜的に『長』と定めている。その一匹は生来性別を持たず、従って同じ種族の中では死ぬまでひとりきりなのだが、人間の形をとるときのみ性別の区別が生まれる。もしもその姿でいるうちに人間と交わることがあれば、仔を成すことは可能だが、これまでにそのような例はなかったという。白い獣にとって、彼らを狩る人間は天敵であるからだ。人の姿は、人間の状況を探るため、もしくは交渉をする際に役に立つのみで、人間と深い親交を持とうとする『長』はいなかった。
「この姿しか見ていないおまえには信じがたいだろうが、仔を生んだのはオレだよ」
少年はにっこりと笑って、子どもの父親の肩を叩いた。
「いえ、信じます。道理であの仔たちが俺に懐いたわけだ……」
半ば呆然としながらも、先月の出来事を思い出し、男は頷いている。はやてが兄弟に伝えたのはそのことだったのだ。
「仔らは仔らで戸惑っただろうがな。全く姿かたちの違う『父親』で」
少年は何やら楽しそうに目を光らせている。
「俺の仔たち、ですか……。頭ではわかりましたが、実感は全くわきません」
「よく言う。こんなに注ぎ込んでおいて」
すっきりしない様子で首を振っている男に手を伸ばし、少年は気だるげにその背を引っ掻いた。
「これでまた仔ができますか?」
男は相手の体をぐっと引き寄せ、訊ねる。
「さあな。まだわからない」
きつい腕の中でやんわりともがいて、少年は伸び上がった。男の両頬を舐め、鼻の頭を噛んで挨拶する仕草に別れの意図を読み取り、
「もう行くの?」
「嵐も過ぎたようだからな。戻らないと」
男は身を起こし、人の姿を惜しむように少年の体を一度抱きしめ、
「また次の満月に」
と、触れるだけのくちづけを落とした。
少年は外へ出ると身をよじって白い獣の姿に戻った。
いつの間にか起きてきたはやてがその後姿へ向かってキュウンと鳴いた。
「いい子だな、はやて」
男はその首筋を軽く叩いてやった。
一人と一匹は、嵐の過ぎた森へと消えてゆく白い尾をいつまでも見送った。
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