8. Thunder Moon
狩人が谷を越えて白い獣の住む山へ入ってから、およそ一月が経っていた。
彼らのテリトリーに踏み込んで以来、男は襲撃を警戒して罠や目潰しといった対抗策を万全にしていたが、なぜか彼らが以前のように群れを組んで襲撃してくることはなかった。
同じ白い獣の仔を連れているためなのか、あるいは何か他の理由があるのか。
拍子抜けしつつも不審な思いを拭い去れぬままに日々は過ぎている。
はやてはすっかり大きくなり、成獣と殆ど変わらない。間に合わせの小屋に男とふたりで暮らすには些か窮屈ながら、はやては決して男から離れようとはしなかった。夜は男の寝台の横に、その寝台と殆ど同じ程もある体を狭苦しく横たえ、昼は相変わらず男を手伝って森の食物を探す。夕刻になるとひとりで山の深くへ駆けてゆき、自分の食事は一人前に調達するし、さらに男の分も土産に銜えて帰ってくるので、
「おまえは俺より腕の良い狩人だな」
と狩人ギルド一の腕利きを苦笑させるほどだ。
傍目には決してそうは見えない『親子』が、そうして睦まじく暮らしていたある日―――
小屋の板越しに響いてきた一発の銃声が、狩人を眠りから覚まさせた。
決して聞き間違えではない証拠に、床で眠っていたはやても身を起こして低く唸り声を上げている。
銃声は近くはなかったが、確かにこの山の中のものだ。
自分以外にこの山に入った者がいる。しかも、何かを狩っている。
この山は神殿の背にあり、禁猟区のはず。つまり、その何者かは紛れもなく密猟者だ。神の山を恐れない、たちの悪い奴がここに入り込んでいる。狩人ギルドの長の言うとおり、銃を用いた荒くれ者が。
「そうか。彼らはこれに集中しているんだな」
狩人は、白い獣が一向に自分を襲わない理由を合点した。
成る程、それどころではない。彼らの目の前には銃を持ち込んだ新しい敵がいたのだ。
「―――嫌な予感がする」
男は久々に銃を手にし、はやてを連れて外へ出た。
この山のことは、一月の間にすっかり把握している。相手に気取られることなく様子を窺うことは造作もない。
いざとなれば、その人間を撃ち殺すつもりでいた。
ふたりが見回りを始めてから四日目、森は満月に照らされて白々と明るかった。
見回りの結果、密猟者は今のところ一人であることがわかっている。銃も一丁。ほかに鉄製の罠を数個持ち込み、あちこちに仕掛けているようだ。小動物は何匹かかかったようだが、幸いにして白い獣が傷ついた痕跡はない。
一通りの見回りを終えたふたりが小屋へ戻って夕食を摂っていたとき、外から微かな物音が聞こえ、同時にはやてが立ち上がった。
「彼が来たのか?」
器を置きながら問う男の声を遮るようにして、鋭い吼え声が聞こえ、それに応えてはやても吼え始める。
その尋常でない様子に、男は銃を引っ掴んだ。
体当たりするようにして戸を開けると同時に、森から白い獣が三匹駆けて来るのが見えた。一匹は後足を引きずっている。
一目で状況を悟った男は、みるみるうちに眉の角度を跳ね上げ、銃を肩に担ぐ暇も惜しんで駆け出した。
「高耶さんのところへ案内してくれ!」
矢のように駆けて来る三匹と合流した狩人は、共に走り出しながら焦燥も露に問いかける。ぐんと速度を上げた仔らに遅れを取りそうになったとき、はやてがその袖を銜えて自分の背に誘った。
あっという間に背にまたがらされた男は、風のように駆けるはやての背に身を伏せ、兄弟たちの後を追った。
脚を引きずっていた仔は密猟者の罠にかかったに違いない。罠を外すことができるのは人の手だけだが、幸か不幸か今夜は満月だ。彼が人の形になって仔を罠から外してやり、怪我をして満足に走れない仔が逃げるに充分な時間を稼ぐために自ら囮になったのだ。仔らはそして、父親に助けを求めに来たのだろう。
「間に合ってくれ……頼む!」
男は矢のように駆けるはやての背で、血のにじむほどきつく唇を噛み締めた。
ぽっかりと浮かんだ満月の下、ようやく辿り着いたその場所で、白い獣の長は今しも密猟者の餌食になろうとしていた。
「―――!」
思考も判断も消えうせ、真っ白になった意識の中、はやての背から飛び降りた男は、まさに火を噴こうとしている銃と彼との間に、無我夢中で身を躍らせていた。
突然の乱入者に驚いた密猟者は中途半端に引き金を引き、そして、
一瞬の間をおいて、男の体が吹っ飛んだ。
地面に倒れこむ男を見た瞬間、白い獣の長は嵐のような咆哮と共に密猟者へ踊りかかり、一撃でその喉笛を引き裂いた。
ゆらりと崩れた体には見向きもせず、彼はすぐさま取って返し、はやてや他の仔らが取り囲んでいる男のもとへ駆けてゆく。
男の傍らへ膝を突いた彼は人の姿になり、ぴくりともしない体に取りすがった。
「直江、目を開けろ!」
血に染まった頬に熱い涙が落ちてゆく。ぴりりと沁みるその味に、狩人が眉をしかめた。
ゆっくりと瞬くようにして、右目が開かれる。
「なお……」
真っ赤に染まった顔の左半分は言うことを聞かないようだが、男は伴侶の顔を認めると、片目で微笑んだ。
「良かった……あなたは無事ですね。間に合った」
右手を伸ばし、少年の頬をいとおしげに撫でる彼を、相手は呆然と見ている。
「オレには……傷一つ無い……でも……おまえの目……っ」
少年が張り裂けんばかりに目を見開いて凝視している男の左目は、頬の半ばから顔を抉るようにしてかすめていった銃弾のせいで、もう元に戻らないことは明らかだった。
けれど、男は苦痛すら感じていないように微笑んでいる。
「ちゃんと、見えていますよ……。片方でも、あなたを見ることができるなら充分だ。あなたが無事で本当に良かった……」
男は心の底からそう思っている様子で、幸せそうに片目を細めた。その瞳に浮かぶ色はこれまでと何ら変わらず、愛しげに伴侶を見つめている。男の中には真実、幸福感しかないのだ。
「ばかやろ……オレのことなんか、どうでもいいのに……! おまえの目、きれいな琥珀の目……っ」
二度ならず三度までも自分を守り通して、約束された神官の道を捨て、一介の狩人に身を落とし、そしてとうとう今度は二度と取り戻すことのできない目を失った男。悔やんでも悔やみきれないその喪失に、少年の張り裂けるほどの痛みは熱い涙となって男の頬を濡らした。
「泣かないで。あなたが泣くと俺はこんな傷よりずっと苦しい。泣かないで……」
男は少年の涙が自分に降り注ぐたび、苦しげに眉を寄せる。傷口に沁みる痛みと、何よりも大切な相手を悲しませている現実とが、男を苛む。
「直江……っ」
少年はとうとう男の胸に額を押し付けるようにして崩れ落ち、声も無く泣いた。
出血と苦痛のために男が半ば意識を失いかけた時、二人を取り囲んでおろおろしていた仔らが、男の胸に身を伏せている少年に鋭く吼えて時を告げた。
状況に気づいた少年は男の無事な方の頬へ手のひらを添わせて目を覚まさせると、
「とにかく、傷を何とかしないと」
と立ち上がった。
「直江、オレの背に乗れるか?」
「俺は大丈夫ですが、あなたの方が無理そうだ。俺ははやてに乗ります」
少年の体にちらりと視線を走らせた狩人は首を振り、待ち構えて尾を振っているはやてに頷いて見せる。
「わかった」
白い獣の長は元の姿へ還ると、子どもたちを先導して駆け出した。
顔を負傷した男は翳む視界を苦にしながらも、自由な四肢でどうにかこうにかはやての背にまたがり、何処とも知れぬ森の深くへ連れられていった。
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