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9. Harvest Moon
古びた看板の下にある両開きの扉を胸板で押し開けて一人の狩人が入ってくると、いつも岩のようにむっつりとしているギルドの支部長が珍しくあからさまに表情を変えて相手を迎えた。
「残念だ。腕利きの狩人だったおまえさんが引退とはな」
男の顔の左半分をちらりと見て、支部長は一つ溜め息をつき、カウンタの下へ身を屈めた。
対する男は軽く肩をすくめて淡々と言葉を返す。
「仕方ない。この目ではな。おとなしく故郷へ帰るさ」
内面がどうなのかは別にして、見たところはまるで何事も無かったかのようにいつもどおりの顔をしている。同じ業界で知らぬ者は無い名うての狩人が一体どういう目的で狩りをしているのか、他人には元々窺い知れなかったから、辞めるとなってもそれほどの未練はないのかもしれない。
さほどの時間を掛けることもなく立ち上がったギルド支部長は、目的のものをカウンタにどさりと置いた。
「ギルドの脱退金とこれまでの積立金だ。確認してくれ」
狩人たちのくゆらす煙草の灰でところどころ焦げ目のついた分厚い木製のカウンタには、片手に余るほどの大きさの麻袋がある。見かけは小さいが、中身がどれほどのものかは、狩人が取り上げた時のずしりとした音からも窺い知れた。
「ああ。……確かに」
袋の口を開いてざっと中身に目を走らせた男は、紐を縛りなおすとそれを懐へ収めた。
「じゃあ、達者でな」
「あんたもな」
ハンターギルドの支部を出た男は、外の日差しに隻眼を細めた。
風になぶられる長髪から時折見え隠れする左目は、頬の半ばからこめかみまで続く獣の爪痕に閉ざされている。白い獣を狩った男として名高かった第一級の狩人が獣とのやり取りで片目を失い、ハンターを廃業することになったという話は僅か一月の間に狩人業界全体に知れ渡っていた。
男は廃業にあたって、ギルドに加入する際に払うきまりの金と、上がりに応じてギルドに収める積立金とを受け取りに町の支部へやってきたのだった。
男は懐の金の重みを確かめつつ、その足で町役場へ向かった。
役場から出てきたとき、男の懐はすっかり軽くなっていた。―――代わりに手に入れたのは一枚の紙切れと、余生の安住権。
来たときと何ら変わらぬ様子で町を後にした男は、山のふもとにある神殿へ立ち寄った。奇しくもそこは、かつて男が神官見習いの少年だった頃に仕えていた神殿である。しかし、十数年前の記憶は疾うに朽ち果て、現在目にする何物も男の表情を動かすことはなかった。
ひと気の無い神殿で何事かを熱心に祈ったのち、男はその奥にある山へと足を向けた。人の立ち入らない神山に深く踏み込んでゆくと、いつのまにか一頭の白い獣が表れて男の傍らに寄り添った。
「ただいま、はやて」
男の見えない左側を守るようにぴたりと寄り添う獣に、片手でその首筋を叩いて挨拶する。獣は犬のように従順にくぅんと鳴いた。
ふたりがさらに奥へ進んでゆくと、やがて三頭の白い獣が現れ、ふたりの後ろについた。
「ただいま、子どもたち」
男が彼らに声をかけると、彼らは思い思いの声で返事をする。
「みんな移動が済んだか?」
誰にともなく問うと、ウォンと吼えて頷くのははやてだ。兄弟のうちで唯一父親の元で育てられた彼は、明確に人の言葉を理解する。
「そうか。では俺が最後だな」
急がなければと呟いた男に、はやてがその袖口を銜えて自分の背に促す。
「いつも済まないな」
男がすっかりたくましくなった獣の背に跨り、身を低くすると、四頭の獣はぐんと速度を上げて駆けて行った。
獣たちは風のように神山を駆け抜け、それに連なる三つの山を越えて、最も人の足を踏み入れない奥地へ至った。
この山は、麓は茨に覆われていて不毛の地に見えるが、上へ行くにつれて木の実をたわわに実らせた木々が増え、鳥や小動物も多く生息している。人という種族の存在しなかった太古のものと変わらない、獣たちの世界だ。
白い獣の兄弟たちは頂上近くの少し開けた場所で足を止め、男ははやての背から降りた。
辺りはすっかり暗くなり、満月の光が草原を白く照らしている。
はやてたちが一言吼えると、一頭の大きな白い獣が現れた。
「ただいま、高耶さん」
一際美しい銀色の毛並みに手を触れ、男がその顔を見上げると、獣は男の頬を舐めて鼻の頭を噛む挨拶をし、それから空へ向かって短く啼いた。
その声に応えて白い獣たちが集まってくる。小さな広場は忽ち数十頭の獣で埋め尽くされた。
家族に守られて傷を癒していたこの一月の間、長のごく親しい間柄であるものたちとしか顔をあわせたことのなかった男は、初めて群れ全体の前にその身をさらすことになった。一斉にかかってこられれば逃げ場のない状況だが、既に腹は括っている。
そんな男をすぐ隣に置いて、長は群れに向かって話し始めた。
『皆も知ってのとおり、この男はオレの番いの相手だ。子どもたちの父親でもある。
この男は今日、この山を人の世界から買い受けてきた。この山には今後人の手が入ることはない。オレたちの山だ。
今日を以って、この男を正式に仲間に迎え入れることとする。
異存のあるものは?』
年長者たちはぴくりとも表情を動かさなかったが、若い獣たちはざわめき、うちの一頭がすっくと立ち上がった。
『しかし……その男には仲間を随分殺されました』
彼は消せない憎悪を滲ませた瞳で狩人を睨み付けている。無力な人の子を守ろうというように傍らに寄り添った長はその視線をまっすぐに受け止めて頷いた。
『ああ。それは事実だ。だから、一年前に約定を取り付けた。二度とオレたちを狩らないと。
それ以来、この男は一度もオレたちを傷つけることはなかった。それも事実だろう?』
『だからといって、すべてを水に流すのですか?』
僅か一年の禁猟で過去の罪を帳消しにするというのはどうしても納得がゆかないと、若い獣の双眸が炎を宿す。その激しさをも受け入れ、長は軽く頭を振った。
『そうか、おまえはまだ若い。知らなかったな。……この男に借りがあるのはオレの方なんだ』
『何の話ですか?』
『オレは生まれて間もない頃、この男に二度、命を助けられた。一度は人の罠にかかり、二度目は山猫に喰われるところだった』
遠い昔の自分の弱さを笑うように僅かに視線を落としながら、白い獣の長は淡々と告白した。当時のことを知らない若い獣たちがざわめく。
『そんなことが……』
自分たちの知っている長は誰よりも強く、およそ生きとし生けるすべての動物の頂点に立っていると考えていた彼らは、その長がかつて人の子に命を救われたなどと聞かされても、俄かには信じがたい様子だった。
『当時この男は神官見習いだった。だが、オレを助けるために山猫を殺してしまい、神官になる資格を失った』
長は彼らのそんな反応をどう受け止めたのか、真紅の双眸に力を籠めながら続けてゆく。
『そして先月は、このとおり片目を失った。オレを助けるためにだ。
生き物が目を失うことがどういう意味を持つか、おまえにはわかるな?片目で生き残れる確率はどれほど低いか知っているだろう?この男はオレのために命を投げ出したんだ。命をかけて自分を救った相手を仲間に迎え入れて世話をすることが、どこか間違っているか?』
まるで自分の方が痛いかのように鼻筋に皺を寄せ、長は傍らの男の顔を見る。言葉はわからないながらも相手の心の痛みを感じ取った男が、何でもないというように首を振って微笑むと、長は視線を前に戻し、若い獣をじっと見据えた。
視線の攻防は長くは続かなかった。若い獣はすぐに目を伏せ、深く頭を垂れた。
『……いいえ。私も父も、あなたに何度も命を救われました。その恩義は決して忘れません。そのあなたにとって恩義のある相手なら、私にとっても同じことです』
他の若い獣たちも同様に感じているようだ。皆、この長には少なからず恩を受けている。
群れ全体が賛成の意思を示し始めたことを受け、長は傍らに佇む伴侶に頷いて見せた。
先ほどの遣り取りは人である男には理解できなかったが、その仕草から自分の存在が許されたことを感じ取り、元狩人は片目で微笑んだ。
『わかりました。我々は長の恩人であるその人の子を受け入れましょう』
やがて、全ての者がざわめきを消し、最前列にいた長老と思しき獣がそう宣言すると、獣たちは一斉に頭を垂れた。
元狩人である男は、彼らから放たれていた害意の一切が消えうせたことを肌で悟り、傍らの伴侶と再度視線を交わした。
『感謝する』
静かに降り注ぐ銀色の光の下、白い獣の長は人の子の姿を取った。
ずっと自分を見つめていた琥珀色の瞳を見上げ、伸び上がる。
「直江」
「はい」
「待たせたな」
少年は伴侶の両頬を挟み、自らの手で引き裂いた爪痕の上に唇を押し当てた。
満月の下での再会から季節は一巡りし、狩人はとうとう伴侶と共に在る安住の地を手に入れた。
長い旅路の果てに一つになった番いを、すべてが始まった夜と同じ月が静かに見下ろしていた―――
fin.
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