2. Wolf Moon
まだ深い雪に覆われた山の奥に真円の銀盤が光を注いだ夜、月に一度の逢瀬を待ち望んでいた狩人のもとに、訪問者は無かった。
狩人は待ち人のための衣服を膝に抱いたまま一晩中待ち続けたが、しらじらと明け初める窓を見たとき、長いため息を一つ、落とした。
予感はあった。
前回の逢瀬での『彼』の振る舞いに、何かしら気になるものを感じ取っていたのだ。これを限りとばかりにしがみ付いた腕の力に。一週間もちりちりと痛み続けた背中の爪痕に。執拗だった肩の噛み傷に。
白い獣たちの長である彼は最後にあの逢瀬を交わして、仲間と共に去ったのだ。最後だと心に決めていたから、番いになりたいと口にしたのだろう。
本来ならば、彼は人の子である狩人と情を交わすなどということがあってはならない立場である。人は白い獣を毛皮のために狩る。白い獣たちにとって人は宿敵ともいえる間柄なのである。だからこそ彼らは、この山に居座る狩人を殺すか山から追うかするために繰り返し襲撃してきたのだし、その彼らをまとめ上げ守るはずの長が天敵と睦まじく交わるなどということがもし発覚すれば、裏切り者として群れを追われることもあり得る。最悪の場合、仲間の手で粛清されてもおかしくはないのである。
そんな危険を冒しても彼が狩人を訪れ、二度に渡って番いの夜を過ごしたのは、彼と狩人の間にある、一種特殊な縁のためであった。
白い獣の長はずっと昔、まだ生まれて間もない小さな仔であったときに、当時は見習い神官として山篭りの修行中だった少年に命を助けられたのである。一度めは密猟者の仕掛けた罠に脚を挟まれて鳴いていたところを助けられ、そして二日後にも。
*
少年神官は、獣の耳と尾を持った小さな男の子が仲間の白い獣たちと共に去ってのち、些か気がそぞろになりながらも、日課どおりの修行に戻っていた。
朝は日が差すより早くに起床し、山で薬草や食糧を採取し、祠を隅から隅まで磨き上げ、夜には薬草を挽いて薬を作る。そして日に三度は祠でじっと祈りを捧げるのが彼の日課であった。
同じ一日を二度繰り返した夕方、見習い神官は夕餉の支度をするべく水を汲みに出かけていた。祠から少し離れたところに湧いている小さな泉に膝を突いて手桶を沈めようとしたとき、少年は鋭い獣の鳴き声を耳にした。
そう離れてはいないところで、何かが起こっている。
少年はつい二日前のことを思い出し、手桶をその場に置いたまま駆け出した。
暮れ始めた森の中へ、白い衣の裾をはためかせながら少年は走ってゆく。キュウンキュウンと、命の危険を知らしめるような悲痛な鳴き声が彼の鼓膜を打ち鳴らす。
間違いない。先日のあの獣の仔だ。
少年は自ら与えた名を叫びながら、懸命に走った。
ようやく辿り着いたそこでは、まだ成長しきっていない少年には巨大としか思えないほど大きな山猫が、金色の眼を爛々と光らせながら、小さな白い獣の仔を追い詰めていた。
「たかや……ッ!」
少年は、白い毛皮に散った朱の色を見て取ったとき、一切の思考を忘れて身を躍らせていた。無我夢中で巨大な山猫と獣の仔との間に身を割り込ませ、人間を見ても怯む様子のない山猫に対峙する。
一瞬の睨み合いの後、山猫は獲物を横取りしようとする侵入者に向かって地を蹴った。
「……ッ」
ざくり、と鋭い爪が掠め、熱い衝撃と痺れが二の腕に広がる。仔犬ほどしかない獣の仔をしっかりと懐に抱えて地面に転がった少年は、すぐに体勢を立て直した。山猫はますます興奮して唸り声を上げている。人間とは全く違う、ぎらぎらと光る双眸を睨み返しながら、少年は目まぐるしく状況を分析した。
敏捷さにかけては人間など比べ物にならない相手である。徒歩で逃げ切ろうというのは不可能だ。応戦するにも武器は―――
―――ある!
少年が腰に手をやるのと、山猫が二度目の跳躍にかかったのは、殆ど同時のことであった。
一瞬の空白ののち、その場にはギャンという悲鳴と、どさりと何かが落ちる音が響いた。
見習い神官は薬草の採取に使う小さなナイフを握り締め、呆然とその場に固まっていた。
巨大な山猫は首を切り裂かれ、ぴくりとも動かずに横たわっている。辺りには既に薄闇の帳が下りているために視界は悪かったが、もう息が無いのは確かであった。
その事実をようやく認識したとき、少年の手から、小刀が滑り落ちる。まだ成長しきらない細い体が、ゆっくりと震えだした。
―――殺生の禁を犯してしまった。
神官になるための修行においては、決して破ってはならない禁則が幾つもある。殺生はそのうちでも最大の禁忌の一つであった。破れば、神官になる資格はたちどころに無くなる。
それを破ってしまったことに、少年の心は激しく震えた。自分の腕の中に抱いた獣の子の存在すらも、その頭の中からは飛んでしまっていた。仔が震える少年を心配してキュンと鳴き声をたてるまで。
「……高耶」
獣の仔が腕の中で伸び上がり、小さな舌で頬を何度も舐めてくるのを、少年はしばらくの間なされるままに受け入れていた。
「ああ、そうか」
やがて、見習い神官は血に濡れた手で獣の仔を抱きしめ、その毛並みを撫で始める。
「きみは助かったんだ。良かった。それだけで充分、良かった……」
神官になるためだけに耐えてきた十数年の修行の日々を、少年の頭は目まぐるしく回想した。
浮かんでは消えたそれらは、そのまま二度と戻ってこなかった。
自分を拾い、養育した大人たちの意図のままに歩んだ日々は、砂の如く飛び去った。
強く閉じた瞼の裏には何も残っていない。
ゆっくりと瞼を上げたとき、最初に目に入った真紅の瞳だけが、少年の記憶に刻み付けられる。
美しい真紅の瞳を持つ、雪のように白い獣の仔。
獣の仔と引き換えに神官の道を捨てた少年は、その翌日、神の山を後にしたのだった。
少年は姿を消してしまった獣の仔を追って、白い獣を探す旅に出る。その途中で狩人として名を馳せるようになり、やがてとうとう白い獣を狩ったのは、およそ十年後のことだった。
満月の夜に月光を浴びて散歩をする習慣は、遠い日の出会いを回想するが故。
その習慣故に『彼』との再会を果たし、逢瀬を重ねた彼は、そして再び置き去りになった。
「もちろん……これで諦めたりはしませんよ」
『彼』のつけた噛み傷を服の上からなぞり、狩人は独りごちる。その瞳は月のように穏やかで、生きる証を見つけた者に特有の揺るぎない表情がその顔には宿っていた。
死ぬまで、あなたを追ってゆく―――
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