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11. Frosty Moon
人の足を踏み入れない山奥深くに、時折一筋の煙が立ち上るのを、麓の人間が訝しく思い始めた頃。
仮住まいの小屋にもすっかり馴染んだ狩人は、ようよう地の利を手にし始め、毎日のように繰り返される獣との攻防にも余裕を見せるようになっていた。もう長い間、生きた姿を目撃されることのなかった白い獣が、数頭もの群を作ってこの狩人の前に現れるのを、もし人が見れば目を疑ったことであろう。その人物は、次に、狩人の動きに奇妙なものを感じるに違いない。半ば伝説化していた白い獣を数十年ぶりに狩った男として名高い一流のハンターは、今、獲物を前にして飛び道具を手に取ることがなかった。
群をなして襲いかかってくる獣に怖じ気づいたというわけではない。腕が落ちたわけでもない。飛びかかる獣をひらりひらりとかわす彼の身のこなしを見れば、誰もその身体能力を疑うことはなかろう。
彼は、故意に武器を捨てたのである。正確に言えば、獣に対する攻撃を止め、防戦一手に徹したのだ。赤い目をした長を除けば外すことのなかった百発百中の矢も、今は小屋で埃をかぶっている。彼は地面に設置した手製の罠や、相手を怯ませる目潰しなどを駆使して窮地を切り抜けていた。
その理由は、狩人自身を除けば、たったひとりしか知らない。
今は攻撃してこないにしろ、かつて何頭もの仲間を狩った狩人は、白い獣たちにとって、安全な住処を脅かす恐るべき侵入者である。獣たちは毎日のように群を編成して襲いかかっていた。
彼らを統べる長は、彼しか持っていない真紅の瞳で、じっと、戦いの様子を見守っている。
獣と狩人との攻防は既に一月も続いていたが、武器を取らないにもかかわらず男は手強い。未だ傷一つ負うことなく記録を伸ばし続けている。
季節は冬。これからますます気温が下がり、既に雪に覆われた山はより深く雪と氷に閉ざされる。あと数日もすれば、獣たちの活動はほとんどなくなるのだ。狩人は、白い獣が冬眠することを知っていた。数頭が見張りとして起きているとしても、群を組んでの襲撃は止むはずである。命を懸けた攻防は雪解けまでお預けとなる。本格的な対策を練るには充分な猶予が、男には与えられるのだ。
とっぷりと暮れた山に唯一の灯りが、粗末な小屋の隙間からこぼれ落ちている。
木の実を煮込んだスープで質素な夕食を終えた狩人は、藁を積んで布を掛けただけの簡単な寝台に身を横たえた。眠るというわけではなく、彼は時を待っている。
外へ明かりを漏らしていた小屋の隙間から、白い光が射し込み始めた。目を閉じていた男は気配でそれを感じ取り、身を起こした。
かんぬきを外した扉を外へ押し開けると、そこには、積もった雪が月明かりに白く輝いている。今夜は満月だった。男にとって特別な夜だ。すべてが始まった日も、満月だった。
男は銀盤を見上げて目を細め、その光を全身に浴びようと小屋の外へ足を踏み出した。もう十数年間、何度も繰り返してきた習慣である。『白い獣を狩った』凄腕と並んで、月に一度の『満月の日には決して狩りに出ない』ことで有名な彼のその習慣は、様々な憶測を呼んだが、彼自身にとっては願掛けなどという俗悪な意図が何らあるわけではなかった。
小屋を出て二歩進んだところで、その瞳がハッと鋭くなる。
反射的に身構えた瞬間、横殴りに飛びかかってきたものに地面へ押し倒された。
間近にある生暖かい息づかいと、その全身を覆っている長い毛の感触が、自分を押さえつけているものが大きな白い獣であることを物語っていたが、男は何ら反撃する様子も見せず、じっとしていた。
「―――油断したな」
目を閉じて体の力を抜いた男の上に人の声が落ちてくるのと同時に、体を押さえつけていた獣の四肢が感触を変えた。
滑らかな人の肌が両腿と片腕にのし掛かり、喉元を押さえつける指を感じたとき、男は目を開けた。
「こんなところへ一人で来ていいんですか、高耶さん」
数多いハンターの中でも最も恵まれた体格を持つ逞しい狩人が組み敷かれたままの姿勢で微笑み掛けたのは、彼よりも一回りは小さいであろう少年である。傍目には奇妙な光景だったが、この少年は見た目通りの人間の男の子ではない。両足と片腕を押さえつける力は尋常でなく、男の首に這わされた指はその気になればいつでも息の根を止められる位置を押さえている。
「オレじゃなかったら、おまえここで終わっていたぞ。その程度の男だったのか?」
唇から放たれたのは手厳しい言葉だったが、男を見下ろす瞳に殺意はない。生殺与奪権を握っている手も、ただそこに置かれているだけで、何ら力は加えられていなかった。
「あなたに会えるような気がして。今夜は満月だから」
そうやって笑っていれば決して狩人などという血なまぐさい種類の人間には見えない、優しげな顔をした男は、無防備に微笑みながら自由な方の腕をゆっくりと差し上げた。
「呆れた奴だ。武器も持たずに。他の奴だったらどうする気だったんだか」
「けれど、あなたに会えた。言葉も交わせた。生き返る思いだ」
男は少年の滑らかな頬に手のひらを触れ、人ではありえない清く澄んだ瞳をじっと見つめた。穏やかな鳶色の瞳は、底の知れない漆黒の瞳を恐れることなく、名状しがたい深い色をのせて見上げている。
「……死んでもいないくせに」
嬉しそうに見つめてくる男に口では毒づいたが、少年はふっと力を抜いて相手の体の上に身を重ねた。
「……冷たい。何も着ないでいたらいけませんよ。凍える月なのに」
その背に両腕を回して抱きしめた男は、裸の背中の冷たさに身を起こそうとしたが、相手がそれを許さなかった。
「すぐにもとに戻るから構うな」
黒い短髪の頭を男の首筋にうずめて、少年は淡々と呟く。首に浮いた逞しい筋に鼻先をくっつける様子は獣がにおいを嗅いでいる様子にそっくりで、男はくすぐったそうに眉をしかめている。滑らかな背中を温めようというように撫でながら、
「もう戻ってしまうんですか? そうなると話せないのが寂しいですね」
とため息をつくと、腕の中の獣がかりっと首に噛みついた。むろん、力が入っているわけではないので、肉が破れることはない。単なるいたずらだ。まるで、牙が痒くてあちこちに噛みつかずにはいられない子どもの獣のような仕草だ。
「仕方ない。あれが本来の姿だから。今夜は満月だから人の形を取れるけど」
「俺を噛み枝にしないでください。……そうですか。じゃあ、次に会えるのは今度の満月ですか?」
男は獣の背中をぽんぽんと叩いて馴らすようにしている。獣は半分ほど身を起こして男を見下ろした。
「それまで生きていたらな」
「勿論です。あなたの選んだ男はそれほど柔ではありませんよ」
無表情とさえ呼べそうな深い黒の瞳を恐れる様子もなく奥底まで見上げ、男はにっこりと微笑む。相手は頬に触れようと伸ばされた手をかわすようにして身を沈め、男の頬をぺろりと舐めた。相手に懐いた犬のような仕草だが、獣の瞳はやはり鏡のように静かなままで、到底そのような意味があろうとは思われない。
「……?」
意図をはかりかねて不思議そうに見上げている男の反対側の頬も舐め、それから鼻の頭を軽く噛んで、獣は顔を離した。
「何かのおまじないですか?」
「さあな」
獣は素っ気なく顔を横へ向け、男の体の上から退いた。音も立てずに地面に降り立ったのは、見事な白い毛並みを銀光になびかせた美しい獣だ。白い獣の中でも一際美しい大きな体をした長は、その毛並みと同じ真っ白な雪を踏んで、森の奥へと消えてゆく。
雪の中に半身を起こした狩人は追おうという様子もなく、静かにその後姿を見送るのみ。
凍える月の下で交わした番いの挨拶を、男は知らない。降り積もる雪の上に残された足跡だけが、短い逢瀬の現実であったことを示す唯一の証だった。
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