Fullmoon Tonight 





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10. Hunter's Moon



 傷ついた獣が、痛む体を引きずるようにして駆けてゆく。純白の毛並みに広がる真っ赤な血が、その深手を表していた。
 追う狩人は最後の一押しとばかりに弓を構え、眇めた鳶色の目で正確に獲物の急所を狙い定めた。
 今しも矢が弦を離れようとした瞬間、ざっと音を立ててその軌道に割り込んだものがある。
はっと目を見開いた狩人の前にいたのは、ひときわ大きな体をした、純白の獣だった。こごえるような真紅の双眸が、狩人をまっすぐに射抜いている。
 白い獣の群の中に、この色の瞳を持つものはただ一頭のみ。他のものとは明らかに違うオーラに身を包んだその一頭こそは群れの長であろうと、狩人は見当をつけていた。
 すでに何頭もその手にかけた狩人と、それに対峙する獣の長とが、時というものを忘れたかのように息を潜めて向かい合っている間に、先ほど傷を負わされた獣は姿を消した。狩人はそれに気づいていたが、ほんの一瞬も目の前の大きな獣から意識をそらすことはない。
 きりきり……と音を立てて弓弦が引き絞られてゆく。
 獣は動かない。
 その眉間に狙いを付けた矢が、とうとう放たれる。
 並の者では引くことすらできぬ強弓から解放された矢は、まさに目にも留まらぬ速さで獲物へとまっすぐに飛んでいった。

 だが狩人は、あろうことか、結果を見届けることなく目を閉じた。

 一瞬の間をおいて再び開かれた目がとらえたのは、遙か遠い地面に突き立った矢が空気を震わせる光景のみ。
 獣が倒れている様子も無ければ、矢が掠めた証拠である毛の一筋すらも、そこには見あたらない。

 狩人は知っていた。どれほど狙い定めても、矢があの長を傷つけることはないと。これまで何度かの邂逅の中で得たその屈辱的な知識は、しかし彼を失望させもしなかったし、諦めさせることもなかった。
 彼は獣を狩るためにここにいるわけではない。むろん、生活の糧を得るために狩って売ることはあったが、それは彼の究極の目的ではなかった。
 彼はただ、探している。





 満月の夜のことだった。
 数多くいるハンターの中でも『白い獣を狩った』凄腕として有名であり、かつ、『満月の夜には狩りをしない男』としても名の知れたその狩人は現在、白い獣が頻繁に出没する山の一角に建てた間に合わせの小屋に起居している。
 彼はまるで満ちた月に力を分けてもらおうというように、満月の夜の散歩を好んだ。今夜も、彼は水をくみがてら、桶を持って小屋を出てゆく。清浄な月の光を全身に浴びて歩くその姿は、血なまぐさい狩人であるとは思えない清冽さである。艶のある茶色の髪を左の肩寄りに束ねて胸に垂らし、丸腰で木桶だけを手に歩いてゆく。髪の色よりも濃い、鳶色とも言うべき瞳は普段の鋭い光を消し、どこか遠くを見るようにゆっくりと瞬いた。
 彼がそんな風に穏やかなオーラを纏って近づいて行ったせいであろうか、泉の先客は全く警戒の色無く、何気なしに彼を振り返った。

「 !? 」

 互いに目があった瞬間、彼らは凍り付いたように目を見開いた。

 泉の中にあったのは、一糸纏わぬ姿で水を浴びていた一人の少年の姿。しかし普通の人間でない証拠に、彼の頭にはぴんと立った三角の獣耳があり、尻には真っ白な尻尾が生えていた。

 両者が凍り付いていたのはただの一瞬で、次の瞬間には少年がくるりと身を翻していた。

「待って!」
 武器を持たない狩人の喉から、ほとばしるような叫びが夜の闇を破った。
「待って、待ちなさい!高耶さん……っ!」

 『名前』がその口から放たれた瞬間、逃げる少年の体が奇妙に停止した。驚いたのは狩人である。逃げている者に「待て」と言ったところで、普通は足を止めるものではない。それなのになぜ……?

 狩人は木桶を放り出して、一瞬にして凍らされたかのように静止している少年のもとへ走った。

 駆けている途中の姿のままぴくりとも動かない少年は、本人の意思で足を止めたわけではない証拠に、瞳一杯に憎悪を漲らせて男をにらみつけていた。
 見とれるほど体格のいい狩人が近づいてくるが臆することはなく、ひたすらに燃える瞳は、満月を宿してきらめく漆黒。
「触るな!」
 その黒に惹かれるようにして手を伸ばした男を、鋭い声が拒絶する。血のにじむほど唇を噛み締めた少年は、場違いな瞠目を起こさせるほど美しい。男はしかし、その美しさに見とれるよりも、投げられた言葉に痛みを覚えた。
「長い間、あなたを探した。やっと会えたのに、抱きしめることすら許されないのですか」
 もう少しでその頬を包むところだった手のひらは行き場をなくし、空中に静止した。しばらく間をおいてぽつりと呟いた男の顔は、心臓に針でも突き立てられたかのように歪んでいた。
 紛れもない悲しみをたたえて自分を見つめた鳶色の瞳に、少年が初めて表情を変えた。しかし、憎悪が姿を消したわけではない。彼もまた苦しげな表情になり、それでも自らの立場というものを捨てることはかなわず、再び瞳の色を鋭くした。
「おまえは仲間を殺した。オレは長として、おまえを倒さなければならない。体が自由になったらその喉笛を噛み切るぞ」
「できませんよ」
 男はひそりと笑みを浮かべると、今度は躊躇わずその頬を手のひらで包んだ。
「あなたは真名に縛られている。俺の与えた名前がある限り、あなたは何一つ拒めない。高耶さん」
 高耶という名によって体の自由を奪われた少年は、容赦のない台詞とは裏腹に悲しげな声で呟いた男によって、きつく抱きしめられた。
「離せ!」
「離しません」
奇妙な格好で硬直したままの体は、質感こそ普通ではなかったが、あたたかい体温は本物だった。腕の中にある体が確かに本物のその人なのだと実感し、男の腕に一層の力がこもる。
「離せ、卑怯者……!」
「聞いてください、高耶さん。俺はもう獣を殺さない。あなたに会えたら、目的は達せられました。だから、もう安心していいんですよ」
「信じない!」
 並外れた体格の男にしっかりと抱きすくめられた少年は、たとえその身が自由であっても、たくましい狩人の腕から逃げ出すことはできなかっただろう。相手を射殺す力を持たない瞳で睨み付けることと、離せと喚くことしか彼にはできなかった。
「俺はもう一度あなたに会いたくて、あの白い耳と尾を探してここまでやってきた。俺の旅路はここで終わりです」
 狩人は少年の言葉には構わず、言葉を続けた。今はぴくりとも動かない白い獣の耳に唇を触れるようにして、深い感情をたたえた声で囁く。それは囁いたというよりも、自分に向かって呟いたような、長いため息を伴ったものだった。
「……だから、俺の喉笛を食い千切りたいのなら、そうしてもいいんですよ。あなたの体は自由だ、高耶さん」
 その言葉が男の口から放たれた瞬間、少年の体を拘束していた呪は無効化した。しかし、目にも留まらぬ速さで男の喉に牙を立てた少年は、獣の牙なら一噛みで骨まで砕ける柔らかな人の子の肉を切り裂くことなく、じっとそのままとどまっている。痛いほど皮膚を圧迫している鋭い牙は、ほんのわずか震えているようですらあったが、獣の衝動に負ける様子はない。
「しないの?」
 静かに問うた男は、密着している少年の体全体が震えているのを感じた。噛むか噛まぬか、葛藤にせめぎ合うさまを肌を通して感じながら、彼は辛抱強く待った。
 少年はやがて、ゆっくりと牙を収めた。
 男の両肩を押さえつけていた手を離し、体の距離もおいた彼は、視線を逸らして呟くように言った。
「オレたちを狩らないというなら、すぐにこの山から立ち去れ。ここにとどまる限り、オレたちはおまえを追う」
 男はこの台詞に微笑し、腕を伸ばして少年の体を自分の胸に抱き寄せた。少年は極めてゆっくりと行われたその動作に対して何も抵抗らしいものを見せず、なされるままに相手の腕に収まる。
「俺はどこへも行きません。あなたのいるこの山に骨を埋めます」
「ここにいたら戦わなければならない。わかっているのか」
 まさに猛獣を扱う仕草で、ゆっくりと少年の背中を撫でながら、男は静かに答え、そして少年は相手の肩に額を預けて呟いた。
「わかっています。それでも、立ち去ることはできません」
「馬鹿やろう。終わりのない戦いだぞ」
 少年の頭が男の肩を押す力が強くなる。男は白い獣の耳がぴくりと動くのを視界にとらえながら、微笑みを深くした。
「そうですね。それでもあなたがいるから」
 男の迷いのない答えを耳にした少年は、
「ばかやろう!」
優しい腕をふりほどくように抜け出て、走り出した。

 男は追わない。ずっと前にもそうしたように、在るべき場所へと帰ってゆく獣を見送る。
 その獣を手に入れたいわけではないのだ。自分の側へ置いておきたいわけではなかった。ただ、もう一度会いたかった。その住処を知った今は、同じ場所にいることだけが望みだ。この山に。

 人の形をした獣は、泉のほとりで足を止めた。

「――― 一年だ! 一年経って、おまえが仲間を一人も殺さずに生き続けていたら、認めてやる!」
 少年はそう一息に叫ぶと、泉に身を踊らせた。白い月の光の下で跳躍した白い人の子の肌は蒼い水の底へと消え、向こう岸に姿を現して森へ駆けていったのは、大きな白い獣だった。
 美しい白い毛並みが風をはらんでたなびくさまを、狩人はいつまでも見つめる。
 やがてその影すらも見えなくなったとき、その場に残ったのは静かな一言のみ。


必ず生き残ってみせますよ―――


 
:.........next Full Moon : Nov.16


05.10.17
フルムーンシリーズ、本編その1です。
敵なのか何なのか、既にできあがっているような気も……。

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