F u l l m o o n
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0. 'cause full moon tonight
煙草の煙ときつい酒の臭いが床板から天井までを覆い尽くした酒場の空気が、一人の男の登場によって僅かに乱れた。男たちが厚い胸板を誇示するように押し開ける扉を、胸というよりも腹に近い場所で押して入ってきた長身の男は、この街にはまだ新参者だったが、既に店の馴染みの客だった。
あちこちにあった割れ鐘のような乱暴な話し声が途切れ、彼を知る者は再びその会話に戻り、知らぬ者は知る者にその素性を問う。
「あれか?あいつァ―――」
「へえ、あれが噂の」
「いつもいいとこでここに来ちゃあ、できあがった女どもを独り占めよォ」
「あらァ、彼が独り占めするんじゃなくて、姐さんがたが放っておかないのよ」
「そういうおめぇも、目の色が変わってるぜぇ。この浮気鳥め」
「まあ、あの男っぷりじゃあ仕方ねェ。そのうえ腕も確かだからな」
「へぇ……」
件の男はあちこちで交わされる噂話など気にも介さない様子で、いつものようにカウンターへ腰掛けた。途端に、その周りを女たちが取り囲む。
「ねェ、今夜はあたしンとこ、どう?」
「なぁにあんた、ロクに飲ませもしないうちにいきなり連れ出す気かい?」
「だって、早く約束取り付けとかないと、いつの間にかよそへ持ってかれちゃうんだもの」
「へェ、こんな風にかい?」
一番年若であるらしい娘が男の右に陣取って誘いを掛けるのを、男の後ろと左隣に位置を決めた年増たちがからかい、左隣の女がやおら男の首を引き寄せ、その唇を奪った。
「あッ!ひどい、姐さんたら」
ほんの短い間ながら深く絡めあったらしいくちづけに、狙いの獲物を横取りされた娘が憤慨する。対する女はふふっと艶やかに笑った。
両側の女が自分を巡って戦うのを、普段ならば気にもせずに置く男だったが、今夜はそのスキに後ろから首へ抱き付いてきた背後の女をやんわりとほどき、
「悪いが、今夜は気分じゃない。一人で飲ませてくれないか」
と、壁に叩きつけても割れそうにない分厚いグラスの角をカウンターの上にこつんとぶつけた。
「あら、珍しいこともあるもんねェ」
「疲れてるンなら、なおさら大事にしたげるわよォ」
「いや、今夜は……満月だから」
男はグラスの中に満たされた液体と同じ色をした瞳に、どこか遠くを見るような光をたたえた。
「そういやァ、あいつ昔神官だったとか聞いたぜ」
「神官?あの直江がか?」
「そうさ。今じゃ並ぶ者もいねェ凄腕の狩人だがなァ」
「へェ……あいつがねェ」
「とんだ血まみれの神官様もあったもんだな」
「なるほどなァ、あの落ち着き払った涼しいカオは、神官様時代の名残ってか」
「それにしても、神官様ってほどの地位をなんで捨てたんだ?」
「黙ってても豪勢な生活ができるってのにな」
「まったく。命がけの仕事をしたって、俺たちゃただのハンターだ。実入りは知れてらァ」
「ヘンな話だよなァ」
男は女たちの去ったカウンターで、一人静かにグラスを重ねている。
いつもなら、命の遣り取りの後の滾り立った体を女で散らすその男は、今夜は普段なら全身を覆っている血の臭いすら殆ど漂わせていない。しかし、狩りに失敗して獲物を得ることができなかったというわけではない。
その理由は、狩人組合に所属する者ならば知らぬ者は無い。
ギルドに加入している数多くのハンターの中で、『満月には絶対に狩りに出ない男』といえば、その男を指す。なぜそんな風に決めているのか、男の真意を知る者は無いが、様々な憶測と共に彼のその不思議な癖のことは知れ渡っていた。
「知ってるか?ヤツの探してる獲物」
「あぁ。あれだろ、どこに生息してるのかも定かじゃねェ、雪みてェに白い毛並みをした……」
「へぇ……さすがに一流は狙うものが違ぇな。俺なんざただの狼相手に四苦八苦だってのに」
「そりゃあおめェ、格が違わァ。一緒に並べるのが間違ぇだ」
「はっは」
「姿も見せねェ、本当にまだ生き残ってるのかもわからねェ、ほとんど伝説になっちまってるアレに挑むってんだからな」
「満月を避けるってのも、なんかの願掛けかねぇ」
「まあそんなモンかもしれねェな」
男は血の臭いも女の戯れも纏わず、今夜はひっそりと一人で酒を飲む。
暗い酒場からは見えない、銀盤のFull Moonに杯を捧げて―――。
彼が、『白い獣を狩った男』として一層その名を広めるのは、まだ少し先の話である。
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