0. First Fullmoon
粗末な藁造りの寝台に子どもを下ろしてやり、少年は手桶に水を汲んできた。血を流す痛々しい傷跡を洗い流し、挽いた薬草を軟膏と練り合わせて塗ってやると、子どもは痛みにぽろぽろ涙をこぼしたが、もう暴れたり咬みついたりはしなかった。
いつまでも全裸ではかわいそうだと思い、自分の上着を出してきて小さな肩に着せ掛けてやったが、子どもはいやがってすぐに脱ぎ捨ててしまう。やはりこの子どもは人の社会で育ったわけではないようだ。しかし、肌寒い季節を感じていないわけではないようで、座らされた寝台から降りると、火にかけた鍋の様子を見に行った少年の足元についてくる。長い衣の膝の辺りを小さな拳で握られ、少年は見上げてくる瞳を見下ろした。
「もうすぐ温かいスープができるからね」
木べらを鍋から引き上げると、少年は子どもを抱き上げて寝台へ戻った。寝台に下ろしてやろうとすると、子どもはいやがって首を振り、懸命に肩にしがみついてくる。
「そうだね。服を着ないのなら、これが一番温かいね」
人肌のぬくもりで温めてやろうと、少年は袖をたくし上げた紐を解いて、長い袖ごと小さな体をくるみこんだ。幼い子どもは温かい胸の中で、とろとろとまどろみ始める。白い獣の耳がゆっくりと伏せられ、くるりと巻き上がっていた尾がぱたりと下へ落ちるころ、小さな生き物は静かな寝息をたてていた。
小さな子どもが目を覚ましたとき、目の前には見知らぬ生き物の姿があった。はっと警戒の色を浮かべた子どもだったが、彼はすぐにそれを消した。目の前で無防備に眠っているこの生き物は、罠に挟まれた自分を助けてくれたのだ。
「……?」
身を起こした子どもは、自分の肩から滑り落ちた布に気づき、くるりと首を廻らせた。彼にとってはその薄くてやわらかい物体は未知の物であり、格好の興味の対象だった。紅葉のような手でそれを掴み、引っ張ったり爪を立ててみたりして遊んでいるうちに、眠っていた救い主がうーんと声をたてた。
「……ああ、目が覚めたんだね。僕も眠ってしまっていたみたいだ」
寝台の上に身を起こした少年に、子どもはうんというように頷いて、その膝に登って行った。少年は自分にすっかり懐いた不思議な子どもに微笑みを浮かべ、片手に抱き上げて立ち上がった。小さくした火の上で温められ続けていたスープは、ほどよく煮込まれている。粗末な木の椀にそれを注ぎ、同じく木の匙を添えて、彼は椅子の役割も果たしている寝台へ戻っていった。
「熱いから気をつけて」
片手に子どもを抱き、もう片方の手に匙ですくったスープを持って、子どもの口元へ持っていく。だが、子どもには状況がよく飲み込めていないようで、不思議そうに匙と少年の顔とを見るのみ。
「お手本が必要なのかな」
少年は言って、まず自分が匙に口をつけて見せた。それから再び匙を子どもの口元へ持っていってやると、子どもは小さな舌を出して恐る恐るそれを舐めた。途端にぱっと離れ、舌を出してはあはあ言うのは、やはり動物じみた反応だった。
この子どもはやはり、獣の社会に育ったのだろうか。熱いものなど一度も口にしたことが無いような反応だ。
「やっぱり熱すぎたかな。こうして、冷ましてあげるよ」
少年は匙ですくったスープをふーふーと吹いて冷まし、なかなか積極的にならない子どもに根気良く最後まで飲ませてやったのだった。
空にかかった満月が傾く頃、寝台に寝かしつけた子どもを見守りながら薬草を挽いていた少年は、ふいに辺りの静けさを破って響いた獣の吠え声にハッと身を堅くした。寝台ですやすやと眠っていた子どもも同時に目を覚まし、どこか遠くから響いてくるその声に応えるようにキュウンと鳴いた。
「あの声は、きみの仲間なの?」
明らかに人間とは違う発声に驚きながら、少年は子どもに問いかけた。しかし子どもは伸ばされた腕をすり抜けるようにして寝台から飛び降り、扉へと駆けてゆく。けれど開け方を知らない彼にはどうしようもなく、立ちはだかる扉に爪を立ててキュウンキュウンと切なそうに鳴くのみ。
少年はその背を寂しそうに見つめていたが、すぐに子どもの元へ歩いてゆき、鳴き続ける子をもう一度抱き上げた。子どもは扉から引き戻されるのをいやがってじたばたしたが、最初のように咬みついて抵抗しようとはしない。
「仲間のところへ帰るんだね。わかったよ」
真っ黒な瞳一杯にぽろぽろ涙をこぼして鳴く子をぎゅっと抱きしめてから、少年は扉に手をかけた。獣の声はもうすぐそこまで来ている。
扉を開けて外へ出た少年は、暗い森の中に佇む幾つもの白い影に気づき、腕の中にいる子どもの耳と尾を改めて見た。きっとこの子どもの仲間は、真っ白な毛並みをした美しい獣なのだろう。
子どもを抱いたまま、ゆっくりと地面に膝をつく。
足が地面に届いたのを感じて、子どもが顔を上げた。少年の瞳と子どもの瞳がぴったりと合う。
少年はそのとき、自分でも驚くほど、この黒い瞳を愛しく思っていることに気がついた。今すぐここで別れなければならないことを認めたくないと思うほどに。
何か一つでも、証を残すことはできないのだろうか。
そう考えたとき、少年は子どもの頬にそっと手を触れて口を開いた。
「僕は直江というんだ」
きれいな黒の瞳はもう泣いていない。鏡のように澄みきって、自分の姿を映している。その自分の顔こそ泣き出しそうに歪んでいるなと思いながら、少年は先を続けた。
「きみに、名前をあげてもいいかな……?」
高耶。
たかや……と―――
少年の視界がぼやけたとき、子どもは伸び上がってその頬を伝う熱い涙を舐めた。
獣の耳と尾を持った小さな男の子が仲間の待つ森へ駆け去る後姿を、いつまでも少年神官は見送っていた。彼に課された務めも忘れて。
見習い神官の中で最も優秀だったその少年が突然その道を辞し、山を下りたのは、満月の夜から三日の後のことだった―――
fin.
|