0. First Fullmoon
神の住まう山高く、深い森の奥に、白い石造りの祠がある。その背後には小さな小屋が控えているが、普段は全くひと気がない。小屋の中には粗末な藁の寝台と、石を積んだだけの質素な炉があるだけである。本来鍋を火にかけ、あるいは暖を取るための炉には、大抵蜘蛛が我が物顔に巣を張っていた。
そんな小屋に現在、珍しく滞在者が存在している。まだ年若い少年で、人一人いない山奥には勿体無いような美しい顔立ちをした彼が何者であるかは、その身にまとう白い衣を見れば明らかだ。
丸くくりぬいた襟元からは華奢な鎖骨が覗き、手首まである長い袖は紐できりりとたくし上げられ、足捌きの悪いひざ下までの衣を物ともせずに滑るような所作で働く彼は、この山の中腹にある神殿の見習い神官であった。神官らしく長く伸ばした髪は布で束ね、一筋の後れ毛もない。彼はたった一人でこの小屋に起居し祠を守るという、一ヶ月間の修行に臨んでいた。日の出と共に起床し、祠を掃き清め、磨き、森に分け入って日々の糧を得る。日に三度、祠で祈りを捧げ、夜には昼間採集した薬草を挽いて薬を作るのが務めであった。
神殿へ連れてこられる子どもたちは、殆どの場合、遠い貧しい村から口減らしのために外へ出された者である。また、行き場の無い幼いみなしごも同じ道を辿るのが常だった。この祠で修行をしている少年も例外ではなく、彼は流行り病で両親を亡くして神殿へ託された身の上である。年齢にしては聡明な子どもであった彼は、多くの子どものように下働きではなく、ごく一握りの神官見習いとして厳しく教育を施されていた。
規則正しい修行の日々を予定の半分ほどこなした頃、いつものように石臼で薬草を挽いていた少年は、木々の葉ずれとは異なる何かの音に気づき、手を止めた。
神の山には全く相応しくない、耳障りな金属音。自然の音ではなく、獣かあるいは人がたてる不規則なリズムである。
少年はすぐに状況を悟り、粗末な木の扉を押し開けて夕闇の森へ出て行った。
(また兎だろうか……この山に罠を仕掛けるとは、何と罰当たりな)
一人きりの修行ですっかり口を使うことを忘れた彼は、心の中で呟く。
数週間の間に何度も出会った光景を頭に思い浮かべ、彼は歩調を速めた。
果たして、音源に辿り着いた彼が目にしたものは、神の山にはあってはならないはずの金属製の罠に足を挟まれ鳴いている小さな―――獣ではなく、人の男の子だった。
まさか、と少年がその場に凍りついたのは、こんな小さな子どもがいるはずもない山の中であるからというだけではなく、その男の子には明らかに普通の人間とは違う点があったからである。真っ黒の髪と瞳をした小さな男の子は、ふさふさとした白い毛の生えた三角の耳を伏せ、長い尾を苦痛と恐怖からくるりと丸めていた。
まるで人と獣の合いの子のような容姿に、声も上げられず固まっていた少年だったが、その小さな子どもが細い足に食い込む鉄さびの痛みに再び暴れ出すと、はっと気を取り直した。
人であろうが小動物であろうが、許されざる密猟者の罠にかかって傷ついたものを助けるのが神官見習いたる自分の務め。
少年は気の立っている小さな生き物を刺激しないよう、ゆっくりと傍へ歩いていった。
「暴れないで。今外してあげるから」
男の子の傍らに膝をつき、足首を拘束している忌まわしい器具に手を伸ばすと、男の子はがちゃがちゃと罠を揺らして逃げようと暴れる。少年は相手のそんな行動にも動じず、慣れた仕草で罠を解除した。
足が自由になった途端、一目散に駆けて行こうとした男の子は、しかしほんの数秒でその場にへたりこんでしまった。深く傷ついた足では思うように走れないのが当然だ。神官見習いの少年にとってはこれも以前までの経験と同じことであり、今度も傷ついた足を叱咤して這い進む小動物を抱き上げた。
「その足では走れないよ。一緒においで。薬をつけてあげる」
兎や栗鼠とは明らかに違うずっしりとした重みを、暴れる手足を、しっかりと胸に抱きこんで少年は立ち上がった。その瞬間、
「……ッ!」
獣の耳と尾を持った男の子は、いかにも手負いの獣らしい仕草で少年の肩に噛み付いた。
思いがけず強い顎の力は、忽ち衣を破って肉までも牙が達した。ウウウと低い唸り声をたてながらますます深く食い込んでくる牙に、少年神官は黙って耐えた。
手負いの獣が暴れるのは当然のことだ。見習いとはいえ神官たるもの、ここで音を上げるわけにはゆかない。
いつまで経っても反撃の気配はなく、ただすたすたと歩いてゆく担ぎ手をどう思ったか、やがて男の子は牙を収めた。自分をしっかりと抱きかかえて歩く人間を、彼は不思議そうに見上げる。
大きな黒い瞳に見上げられ、頬にぺたりと手のひらを触れられて、少年が視線を下げた。何の思惑もなく、ただ清く澄み切った、人ではありえない美しい瞳に、思わず目を見張る。
「いい子だね」
未知の物を確かめるように頬を触る男の子に、頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが、手を出すと再び警戒されるのは確実なので、少年はただにっこりと笑いかけた。
continue...
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