目覚めは妙に快適だった。
いつもの自分の布団はこんなに肌触りがよくもないし、そもそも背中の下がこんな風に柔らかいなどということはないはず。
ありえないような心地よさの中でうっすらと目を開けて、視界に入った天井の高さと白さに目を奪われる。
「……あれ?」
家の天井じゃない。オレの安アパートの天井はこんなに高くないし、それに、板張りだから白くもない。
ということは、ここは家じゃない。
「何でだ?」
寝ぼけた頭はどうにもうまく働かず、高耶はとりあえず無理矢理体を起こした。
起きあがったのはやはりベッドで、それもかなり質のいいものなのはスプリングの具合の快適さで一目瞭然。
う〜ん、と何度か頭を振ってから周りを見回すと、どうやらここはホテルの一室らしい。
広くてきちんと整えられ、調度類もセンスのいいところから見て、一流ホテルと呼べそうだ。部屋には、他に人の気配はない。
「……で……」
場の状況を把握したところで、高耶は再び記憶を手繰り始めた。
体を起こしたことでだいぶん意識がはっきりしてきた。
そして、昨日の出来事を思い出す。
「あ、そっか。あのまま泊めてもらったんだ」
一生に一度もないだろう経験をした日だった。この世界に知らぬ者はないほどの超一流ホストにエスコートされて夕食から酒から、トータルコースとまではいかないにしろ、ずいぶんおもしろい体験をさせてもらった。
「ついでにここに泊めてもらったしなぁ。う〜ん、まともに料金払ったらいくらになるんだろ」
仕事ではないと言われたから素直にくっついてきたのだが、これが本来どのくらいの金を払わないと得られないものなのかは、ある程度想像がつく。つきたくないくらいの内容なのだが。
青年はむむっと眉を寄せてため息をついた。
そして、ふと眉間の皺を解いて、一人で頷いた。
「なんか、でも、わかる気がする……」
直江の言うところの『世界の違う』女たちがこぞって彼を求めるわけが、わかる。
商売っ気抜きだと言いながらもあれほど細やかに手取り足取り楽しく過ごさせてくれたのだ。本来の仕事のときにはもっといろいろな気配りを見せることだろう。
まして、客は女だ。自分は男だからあまり感じないかもしれないが、あれだけのいい男にここまでのもてなしをされれば、女にとってはこたえられないほどのいい気分になるのだろう。
「―――ぁ」
いろいろと考えているうちに、ふと別のことまで思い出して、高耶は唐突に取り乱した。
唇に手をやって酸欠寸前の態を示す。
(オレは、オレは何てことをっ)
経験がない、なんて言わなくてもいいことを口にした挙げ句、あの男に……
「おはようございます」
一人で困った顔をしていると、タイミングよくというべきか悪くというべきか、当の男の足音と声がした。
彼は既にきちんと外出着に着替えている。尤も、ばったりと寝付いてしまった高耶は男の寝間着姿を見てはいないのだが。
「思ったよりも早いお目覚めですね。まだ七時ですよ」
言いながら直江はベッドに近づいてくる。朝からしゃきっと男ぶりを上げて、髪もきれいに梳かれているようだ。傍らに腰を掛けたときに、ふわりと甘い香りが漂った。
「お、おはよう」
横を向いてぶっきらぼうな返事を返すのをどう思ったか、直江はおやと眉の角度を変えた。
「言葉少なですね。もしかして昨夜はお酒のせいで饒舌だったとか?」
「……口が軽かったのはそのせいだ。ったく、一生の不覚だぜ……」
頭に手を突っ込んでぐしゃぐしゃとかき回す青年の仕草には、混乱と当惑と不覚が入り乱れていて、男には微笑ましかった。
「照れなくてもいいんですよ?別段おかしなことは言わなかったはずです」
にこりと首を傾げた男に、青年はまだ苦い顔をしている。
「必要以上にペラペラ喋っちまった。自分のことばっかり」
「自分のことを話さないで何を話すというんですか?そんなの普通のことでしょう」
男はそんな彼に軽く目を見張って首を振った。手をゆっくりと伸ばして指先で相手のぐしゃぐしゃになった髪をそっと梳いてやる。
「でも直江にはうんざりなんじゃないのか?仕事でいっつもそんなことばっか付き合わされてるんだろ」
青年の心配事は自分のプライベートをばらしてしまったということではなくて、むしろそんな下らないことを長々と相手に訴えてしまって迷惑を掛けたのではないかということだった。
しかし、男は首を振る。
「いいえ。楽しかったですよ。何度も言ったとおり、私は楽しんで過ごしました」
社交辞令では決してない微笑みが彼の瞳には浮かんでいる。
高耶には不可解でならないのだが、この男は本気で自分と話すのを楽しんでいるらしい。自分のような何の変哲もない一学生を相手に、何故だかひどくリラックスしているようである。
それとも、昨夜言っていたように普段の仕事とはまったく勝手が違うから、新鮮で疲れをほぐす効果があるのかもしれない。
そんな風に考えながら彼は首を傾げる。
「……そうか?」
「はい」
そう、再三言われて、ようやく頷いた青年は、勢いよく布団をはね除けた。
「とにかく、起きる」
ベッドから降り立った高耶は、はだけた胸元に慌てたようなそぶりを見せて、そこをぴしっと整えた。
「どうかしましたか?」
対する男は楽しそうに笑っている。
相手の恥じらいが可愛かったのだ。
おそらく昨夜のキスに対して照れているのだろうと見当はついた。
「どうもしねぇよっ」
むきになるさまが一層可愛らしい。
直江は朝から非常に爽やかな気分を味わっていた。
本当に、目の前の青年は表情といい態度といい、くるくるとよく動く。誰かの傍にいてその活気に影響されてくる自分を見い出すのが、これほど爽快であるとは、思いもよらなかった。
この青年は、例えるならばやんちゃな仔猫のような雰囲気を持っている。ちょっとしたことで毛を逆立てるのをわかっていてついちょっかいを掛けたくなるような、そんな病み付きの快感をこちらにもたらすような存在だ。
そして、相手がそのからかいを嫌がっていない、と何故だかわかる。だから安心してからかうことができるのだ。
可愛くて。
だから戯れていたいと思ってしまう。
―――ペースを崩されている。
それすらも楽しんでいる自分に気づいて、少し驚いていた。
「着替えている間は向こうに行っていますね。
朝食はルームサービスにしてありますのでそのうち来ると思います」
言って消えた直江を見送って、高耶はため息をついた。
こちらがぎくしゃくしている理由くらい、とうにお見通しなのだろう。
再び思い出してしまって、彼はまた赤くなった。
優しい唇だった。
ゆっくりとなぞるようにこちらのそれを撫でてきて、あんまり気持ちよかったから鼻から抜けるような息をこぼしてしまった。
極上、とはああいうのを言うのだろう。たぶん。経験がないから比較のしようがないが、そうとう上手なのだということはわかった。
さすがは一流だ。うなずける。
「―――ほんとに得がたい経験だな。楽しかった……」
呟く彼は、少しだけ胸の痛むのを感じた。
あのとき最後に言われた言葉がよみがえったらしい。
「好きな人、か……」
呟きは、広い部屋に静かに溶けていった。
★ ★ ★ ★ ★ ★
出会いはそんな一幕だった。
超一流ホストと、保父(予定)。
痴話喧嘩と、夕食と、トーキングと、キス。
プラス、墜落睡眠。
最初から―――おかしな縁だった。
凸凹な人間同士、おかしな出会いをして、おかしな縁に望んで巻き込まれ、そして違う世界に踏み込んだ。
世界が変わる。
そう、確実に世界は変わっていた。
それは、
どんなとき―――?
03/03/12
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