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高耶は物珍しそうに広い部屋を見回し、ソファの上に腰掛けると、
「直江ってさすがに慣れてるよな……」
と呟いた。
実は酒に弱かった高耶は、直江の予約した部屋へ案内されていた。
ただし、酔ったと言っても、足元がふらつく程度で、意識は確かであるが。
お互い話が合うとわかり、ここで別れるにはまだ話し足りないと思ったために、こうして場所を変えたのである。
落ち着いた統一感のある内装のスイートへと誘われ、リビングのソファに場所を与えられた高耶の呟きに対して、直江はミニバーの簡易冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してグラスに水を注ぎながら、顔を上げた。
「まあ職業柄、慣れますね。……あまり褒められた話でもないと思いますが」
中ほどまで注いだ透明なグラスを手に高耶の傍らへ戻ってくると、彼はそれを相手に差し出してから腰掛けて、少しだけ苦笑に近いものを見せた。
ホストという職業柄、こうした場所には慣れている。しかしそんな理由で慣れていても一般的には褒められたことではないだろう。
そんな思いが眉のあたりに皺を寄せさせたのだが、
「それが仕事なんだから、謙遜することないだろ?―――オレなんか何もできねーもん」
対する青年は水を飲んですっきりした顔をしながら、首を振った。
台詞の後半が意味深で、直江は生返事を返すことになる。
「はあ」
どういう意味でこの青年はこんなことを言うのだろう。
彼が自分とその職業を蔑んでいないことだけはわかっているのだが、何だか自分とは思考回路のつくりが違うのではないかと思う。
物事の捉え方が全く違う方向に向くようなのだ。
先ほどの会話の中で、価値観などには驚くほど意見が合うと知ったのだが、やはり社会的立場も年齢も何もかも違うので、何かを考えるときのアプローチの仕方がどうやら全く異なるようだった。
こんな場所に慣れきったホストの自分と、まだ社会に出ていない初々しい青年と。
その差は考えるまでもなく非常に大きい。
直江にとって、青年の一言一言が未知の世界だった。
果たして、相手の次なる台詞はこうだった。
「付き合ったこととかないんだ。だから全然わかんねぇ」
グラスをソファの前に置かれているローテーブルのガラス板の上にコトリと置くと、彼は首を振り振り、そう呟いたのだった。
直江は何と言って返したらよいものか、一瞬言葉を探した。
青年は、自分の職業を疎むどころか、すごいものだと感心しているらしい。
世間一般には眉を顰められがちな水物の商売をする人間に対して憧憬に似たものを感じるというのはどんなものか、と思うが、自分にそれを説く権利はない。
直江の口から流れ出たのは、ため息にも似た声だった。
道徳観念やおざなりの嗜めではなくて、今自分が感じたのはこういうことだ。
「それは……勿体無い。あなたの周りの人間はよほど見る目がないらしいですね」
高耶はふと顔を隣に向けた。
見上げる格好になる、背の高い男は、その整った顔を少し曇らせてこちらを見ている。
「褒めてるのか?」
勿体無いと言ったのは、からかいではないようだ。
表情がふざけていない。
問うてみると、相手は肯いて、腕を組んだ。
「ええ、大いに。……そうですか、何も知らないんですね」
一度、目をそらして呟いてから戻された視線は、確認するようでもあり、どこか子どもを見て目を細める親のようでもあった。
微笑にも似た何かが鳶色の深い瞳の中に浮かんでいる。
「そう、全くの初心者。直江とは正反対なわけ」
綺麗な目だなと思い、それをじっと見ながら肯くと、相手はくすりと笑ってこんなことを言った。
「―――試してみますか?」
「試すって?」
その文脈は何なんだろうと思いながら、なおも目を逸らさずに見て問うと、
「例えばキスがどんなものか、試してみますか」
返った言葉は予想外のものだった。
「はあっ?直江とオレで、か?」
語尾が上がってしまった。
相手の言葉の意図はわかったのだが、驚くべき内容だ。
しかし、冗談にしては微笑が優しい。
肯いて、
「そうですね」
と言った声も先ほどと何ら変わりがない。
直江はどうやら、気まぐれにしろ何にしろ、何も知らないと嘆いた自分にレクチャーしてくれようとしているらしい。
遊びでするつもりではない顔だが、別段重く捉えている様子もない。
幼い自分を慈しむような瞳で見て、ころころした仔猫があまりにも可愛いから鼻先にキスしてやりたくなったというような顔だ。
「うそだろ……ほんとにオレ、わかんねーんだぜ?」
途方に暮れて呟くと、相手の瞳は面白そうに瞬いた。
「大丈夫。こんなものは慣れです。ちゃっちゃと済ませてしまえば、なんだこんなものか、と思いますよ」
笑いを含んだ声だが、それが自分を馬鹿にしているというわけではないことはわかる。
小さい子どもか子犬にでも接するような瞳がこちらを見つめているから。
「そういうもんかなぁ」
「さあ、黙って」
直江は首を傾げた高耶の顎に手をかけた。
―――そっと唇が重なる。
内心では、ひぇぇ、と思って緊張していた高耶だが、近づいてきた瞳の綺麗さに見とれるうちに、自然と体の力が抜けて、いつの間にか素直に唇を預けていた。
触れてきた感触は思ったよりも柔らかかった。
温かくて、弾力のある唇が自分のそれの表面を掠めるように触れてゆく。
閉ざされた唇の周りを、ゆっくりとほぐすように何度も啄ばまれて、いつの間にかうっすらと両の唇を開いていた。
緩んだところへ、甘く噛むようにして上唇と下唇を愛撫される。
むず痒いような甘さが体を這ってゆき、高耶は何度も熱い吐息をこぼした。
唇の表面だけで続けられる優しい愛撫は、未知の感覚でありながらもとても心地よかった。
02/12/07
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