『―――これから時間はありますか―――?』
妙な出会い方をした超有名人と、ごく普通の青年。
彼らはハイヤーを見送ったところで不思議な会話に突入することになる。
「は?」
思いもかけない台詞に、高耶は本日何度目かになる間抜け声をさらしてしまった。
しかし、相手は自分の台詞の脈絡のなさに頓着する様子もなく、流れるような声で続けた。
「お礼も言っていませんし、お名前くらいはお聞きしたいのですが、夕食にお誘いしてもかまいませんか」
何と、ディナーのお誘いらしい。
「かまうもかまわないも、オレ……」
まだ脳が話の内容を実感しきれていないらしく、高耶は鸚鵡返しの答えしか返すことができていない。完全に相手のペースにはまってしまっている。
「誰かと待ち合わせてらしたようですが、まだ姿がないようですね」
意図的ではなく相手をはめたまま、男性はそのペースを保って首を傾げた。
何故だか高耶の事情をわかっているらしい。……わかっているというより、簡単な推理なのかもしれないが。
「いや、別に、大した用じゃないんだけどな」
意図的ではないけれど、すっかり相手のペースに巻き込まれてしまった高耶は、そんな風に言ってしまった。
すると相手は微笑みを見せて、
「でしたら私に付き合っていただけませんか。今夜の仕事はふいになりましたから。予約が浮いてしまって勿体無い」
「予約って、夕食の?」
義明という名前から男性の素性を悟っている高耶は、相手の台詞の中に含まれた一見引っかかるキーワードがすぐに飲み込めた。
果たして、相手は肯く。
「ええ。景色のいいところを取ってあったので、キャンセルするのも勿体無いと思ったのですが、ご迷惑ですか」
この美声で『ご迷惑ですか』なんて囁かれて『ええ、迷惑です』と答えられる女はいないだろう、と頭の中で思いつつ、高耶はため息をつく。
「はあ……。でも別に、オレなんか誘わなくても幾らでも来る女いるだろ?
あんた、橘義明なんだよな」
苦笑まじりに男の名前を挙げてみると、相手は軽く目を見張った。
「おや、私をご存じですか」
確かに、普通の世界の人間が誰でも知っている名前ではない。
橘義明というのは、個人でのホスト業をしている男で、その世界では一二を争う著名人である。
巧みな話術、完璧なエスコート、そして細やかな優しさで客を最高の気分にさせてくれる―――と言われ、予約が引きもきらない超一流ホストだと、千秋を通じて何度か聞いていた高耶だった。
「友達がさ、ホストやってっから。ただし、店付きでストリートもやる奴だけどな」
知っていた理由を簡単に説明すると、今度は相手が問うてきた。
「待ち合わせはその方と?」
「ああ。気まぐれな奴だから仕事も時によって上がりの時間が違うんだよ。今日は気に入った客に会えたみたいだな」
千秋は気に入らないとすぐに仕事を切り上げてしまうのだ。だから、こうして時間を割るというのは相手を気に入った証拠である。
ペルシャ猫のあだ名を思い出して少し笑う高耶だったが、橘は眉を寄せた。
「待ち合わせに遅れるというのは感心しませんね。仕事中にそんなことをする男はホスト失格ですよ」
超一流のホストとして名高い男の、意外に生真面目なその台詞に少し驚きながらも、高耶は肩をすくめて説明する。
「そういう奴だってわかってて指名が入るんだってさ。ランダムな付き合いが新鮮なんじゃないのかって千秋は言ってた」
簡単な説明だったが、その中に橘は引っかかりをおぼえる箇所を見つけたらしい。
記憶を手繰るように何度か瞬いてから、問うてきた。
「千秋……というと、千秋修平ですか?DAS−Yの専属の」
「知ってるのか?」
店名まで挙げてくる男に、高耶は逆に驚いた。
その世界で頂点を極めている男に名前を知られているというのは、なかなかすごいことなのではないだろうか。
友人がそんなにも有名だとは知らなかった高耶である。
「言葉を交わしたことはありませんがね。……なるほど、彼ですか」
橘は納得したように肯いている。
高耶は首を傾げた。
「実は有名なのか?あいつ」
素直に疑っているその仕草に、友達の割にはひどい言い草だ、と苦笑しながら橘は肯定した。
「目だった存在ですよ。私とはタイプが違いますが」
「へえ……。意外なところで繋がりがあるもんだ」
純粋に驚いて高耶は呟いた。もっと広い世界だと思っていたのだ。
「まあ、どの世界にもあることですけれどね。
向こうはこちらを知らない。けれどこちらは向こうを知っている……尤も、彼は私をご存じだそうですが」
橘は極めてまじめにそんな説明を与えた。
「面白いもんだな」
腕を組んでふむふむと感心している高耶に、男は話題を戻した。
「―――それで、そろそろ予約の時間になるんですが、どうしますか?」
袖口から覗いた腕時計も、価格の見当がつかない感じだった。そのことを敢えて気にしないように頭の隅へ追いやって、高耶は頷く。
「千秋には留守電入れとく。……でも、ほんとにオレがくっついて行っていいのか?」
頷いてから、もう一度首を傾げた。
どうしてわざわざ通りすがりの男を誘うのだろう。気まぐれにしても、それでいいのか、この男は?
しかし相手は笑って首を振った。
「あなたが気を使うことではありません。私がお願いしているんですから」
無理強いする笑みではなく、かと言って、誤魔化すような表情でもない。
本気で誘いたいらしいのがわかって、高耶はまだ首を傾げたままだが、こちらも少し笑いを見せた。
「そうかな。とりあえず、ついて行くよ」
「ええ、それでは今夜の私のお相手はあなたということで」
至極楽しそうにそんな風に言ってのけた男に、高耶は妙な顔をした。
解せないのだ。相手が本気で楽しんでいるのがわかるから、よけいに。
「……う〜ん、あんた男をエスコートして楽しいのか?」
疑うように見上げると、
「男をというより、あなたとお話するのが楽しいんですよ。こんな気分になったのは久しぶりです」
例の耳障りのいい声でそんな風に言われて、高耶は感心してしまった。
「とか言って客にリップサービスするんだな。ほんと、違和感なくて心地いいけどさ」
うんうんと頷きながら言うと、相手は苦笑した。
「これは仕事ではありませんよ?あなたの時間を私が戴く代わりに、最高のエスコートをさせていただくんです」
なるほど、最高のエスコート。この男ならばそんなことを言ってもちっともおかしくない。
高耶は面白いと笑って軽く頭を下げた。
「ふぅん。まあ、こんな機会一生に一度もないだろうし、よろしくお願いします」
「ええ、それでは行きましょう」
男の差し出す手を取ると、相手は優雅に微笑んだ。
02/11/25
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