世の中には、本当に様々な人種が存在している。
それは、民族的な意味での人種ではなくて、同じ一つの社会の中でも、色々なものに携わる人がいて、色々な人生を送っているという意味で、そう思う。
同じ時間を、全く別の世界に生きる人々がいる。
自分の背中のすぐ後ろで。
寝ている間にも。
ほんの小さな視点の違いで、全く別の世界がそこには存在しているのだ。
そんな世界に偶然触れることになったオレは、そこで思いもかけない経験をすることになる。
舞台が同じでも、まるで違う世界。
違う時間が流れ、違う顔が行き交い。
そんな場所に、頭を突っ込むことになったのは、初冬のある夜のことだった。
1
高耶は、夜の交差点の片隅で、ビルの柱に凭れて人を待っていた。
時刻は午後8時の少し前。冬の今はすっかり日も落ちて、華やかな電飾が街を彩る。昼間とは別の世界のように、街は空気を変えていた。
行き交う人々は皆、それぞれの週末を前に浮き足立つ。
そうでなければ、今まさに夜へ漕ぎ出でようとするところ。
仲良く腕を組んでどこかへ夕食へ出かけるカップル。
高耶と同様に人を待っているらしいたくさんの若者。
週の仕事に疲れた体を酒で癒そうと連れ立って去るサラリーマンたち。
視線を転じれば、それらの中から同じものを求める人間を探そうと意味ありげな視線を走らせている客引きや女がいる。
黒いスーツにカラーネクタイを締めた、所謂ホストたちを認めて、高耶が誰かを探すような素振りを見せた。
……いない。
視界に入る範囲内には、まだ待ち人は姿を見せない。
金髪を一つに束ねて気さくな態度で女たちを魅了する、あの男は。
高耶は黒い薄手のコートの首に巻いた白いマフラーを鼻先まで持ち上げた。
実は手編みのものであるそれは、素人のものとも思えないほどきちんと網目が揃い、編んだ人間の器用さを物語っている。手編みは重い、などと言って敬遠する人間たちのことなど、高耶にとってはどこ吹く風だ。
実家にいる可愛い妹からの贈りものは、彼にとって何よりも大切な品だった。
本格的な冬ではないけれど、こうした夜の冷え込みには重宝するそれで、吹き付けてきた冷たい風から身を守り、多分に心理面からの温かさをおぼえる彼だった。
高耶の待ち人は、中学からの付き合いになる二つ年上の男である。
高校を出て以来、大学へは行かずにふらりと消えてしまった彼は、ごくたまに葉書を寄越してはその無事だけを伝えていた。住所も勤め先もそのたびに変わっていたが、四年前からそれらが定まるようになった。
その友達が選んだ職は、店に付くホストだった。
実力主義のその世界で、彼はめきめきとその名を挙げ、今では店の看板にまでなっているという。普通のホストたちとは違って、猫のような気まぐれさを持ったままの彼は、そこがいいのだというお姉さま方が固定客について、独立しようと思えばいつでもやってのけられるだけの状態にある。
高耶は友人が選んだその職業を疎みはしなかった。
『女たちが、一緒に過ごして楽しいと笑ってくれる、それが俺たちの存在意義だ』
奇麗事を言うつもりはないけどな、と嘯くように笑った顔が好きだから。
思えば、昔からそうだった。
傍にいる人間のことを色々見て、乱暴そうな口調の下でいつもさりげなく気を回してくれた。
そこにいるだけで、周囲の人間を癒していた。
なるほど、それを考えればホストという仕事は彼にぴったりだろう。
ひとときの癒しを求める女たちに、その場だけでも笑いを与えることができたなら、それはきっととてもすばらしいことなのだ。
高耶は、そういう彼が好きだった。
待ち人―――千秋修平―――は、例によってまだ現れない。
猫並みの気まぐれさが看板の彼であるから、高耶も別段怒りもせずに待つのみだ。
その無聊を慰めようと、人の行き交う目の前の光景に何の気なしに視線を向けた彼は、ふと一対の男女に目を奪われた。
待ち合わせていたらしい。高耶と同じようにビルの壁際に立っていた男の許へ、一人の女が歩み寄った。
男はゆっくりと足を運び、手を差し出して相手のそれを取る。
そうして二人並んだ姿は、まるでドラマを見ているかのようだ。
その羨ましくなるような長身をシャープなラインがその質を窺わせるようなスーツとコートに包み、彫りの深い美貌に知性的な微笑みを浮かべた、三十代前半と思われる男。
その腕にさりげなく手を添える女は、モデル並みのプロポーションを品のいい毛皮でくるみ、整った顔立ちには華やかさと、やはり良家の人間らしい知性的な光を宿していた。
文句のつけようのないカップルだった。
感嘆の吐息をはいた高耶である。
そこにいるだけで空気が違うようなカップルっているもんなんだなぁと首を振ったとき、彼はふと人込みの中に不審な乱れを捉えた。
「…… !? 」
一人の男が、明らかに普通の通行人とは違う動きで人込みの中を小走りに進んでくる。
吸い寄せられるようにその姿を追っていた高耶は、男の手に光るものを認めて目を剥いた。
男は、件のカップルめがけて進んでくる。
折しも、男性が何かの用で女性と離れたその瞬間、銀色の刃が女を狙った。
すぐ隣できらめいた凶器に、高耶は鋭く叫んだ。
「……危ない!」
考える暇もなく、その体が勝手に動く。
ガッ……
男の刃が標的に到達するよりも前に、高耶は中学以来の部活を通じて身にしみついた空手で、その凶器を握った手首を蹴り飛ばしていた。
「ぐぁっ」
男はその勢いで舗道に転がる。
すばやくそこへ駆け寄って刃物を取り上げると、高耶は男を固めて押さえつけた。
―――それが、一瞬の出来事。
空白を置いて、ようやく周囲から悲鳴が上がった。
高耶が、蹲って手首を押さえている男から取り上げた刃物に視線を転じると、それは家庭用の果物ナイフだった。刃渡り10センチといったところか。比較的短いものである。
しかしこんなものでも、心臓の上を一突きすれば簡単に相手の命を奪うことができるのだ。
「危なかったな……」
独り言を呟いて、狙われた女性の方へ視線を戻すと、騒ぎに気づいて戻ってきたらしい例の男性に、その女性がしがみついた。
「義明……」
その唇からこぼれた名前に、高耶は驚いた。あまりにも有名な名前だ。
思わず向けた視線が、相手のそれとぶつかった。
「あなたが彼女を助けてくださったんですね」
男性の声は豊かなバスだった。
まっすぐに交わされた瞳が綺麗な鳶色をしている、と頭の中で思いながら、高耶は肯いて相手の連れの女性へ視線を転じた。
「……えっと、怪我とか、ないですか」
ナイフは到達していないが、一応は尋ねてみる。
相手を落ち着かせるためにも何か言葉を掛けたほうがいい。
義明と呼ばれた男性の腕に顔を押し付けたままの彼女を気遣ったが、相手は案外あっさりと顔を上げた。
「大丈夫よ。ありがとう」
目元のあたりに残っている強張りから推して、怖いのは怖かったらしいが、もう大分立ち直っているようだ。
気丈な人らしい。見た目には上級の階層に属する人間と見えるが、だからといって心まで弱いとは限らない。
見た目以上に芯の通った女性なのだろう。
高耶は肯いて、良かった、と笑顔になった。
心からそう思っていることが窺える、素直な笑みが咲いて、対するカップルが少し目を見張る。
そんな二人の様子には気づかずに、高耶は次の話題に移った。
「……ところで、こいつは何なんですか?」
刃物で狙われるとなると、基本的には怨恨動機であろう。その場合、被害者であるこの女性は加害者のこの男の顔見知りである可能性が高い。
蹲ったままの男を指して聞くと、初めてそこへ目を向けた女性が突然叫んだ。
「あ、あなたっ!?」
「あなた?」
思わぬ台詞に高耶が目を剥く。
驚きのあまり力が抜けて男の手を離してしまった彼だが、女性は危険も顧みずにこちらへ近づいて男を覗き込んだ。
「あなた、何してるのよ、こんなところで!」
女性は、痛みに油汗を浮かべている男にハンカチを取り出して額を拭ってやりながら、そう問うている。
その二人の姿はまるでたった今命を狙い狙われたばかりとは思えないような和やかさを纏っており、高耶はますますわけがわからなくなった。
「あなた、って……」
こぼれた言葉に、女性が顔を上げる。
「ごめんなさいね。これ、主人だわ。……んもう、嫉妬はいいけれど刃物を持ち出すなんて最低ね」
男の額をこつんと弾いて笑う女性に、さらに脱力してしまった高耶だった。
「はあ……」
呆れて物も言えない彼の前で、先ほどの男性が女性に囁いた。
「今日は帰った方がいい。車を拾ってあげますから、ご主人と一緒にお帰りなさい」
存在感のある低めの声が女性を振り向かせる。
その瞬間、彼女は『妻』の顔から元の顔に戻ってほころんだ。
「そうするわ。また連絡するわね、義明」
「お待ちしていますよ」
義明と呼ばれた男性は、どこか面白そうな光を帯びた瞳で彼女を見ていた。
そして、呆然としている高耶の前で、公衆の面前であることも(それ以前に女性の夫の目の前であるということも)知らぬ顔で、軽いキスを交わして二人は別れた。
映画のワンシーンのような、綺麗な一幕に、高耶は目を奪われる。
車のドアを開けてやり、軽く腰を抱いて顔を寄せる男の横顔。
ゆるく波うった綺麗な髪を揺らして仰のく女の伏せられた睫毛。
身長差をカバーするために一方は上半身を屈め、もう一方は踵を浮かせる。
そうして合わされた唇は、ため息が出るほど綺麗なひとときだった。
―――息をするのを忘れていることに、後で気づいた。
夫婦を乗せて走り去ったハイヤーを呆けたように見送ってから、ようやく口の筋肉が回復した高耶が、車の方向を見守っている件の男性にふと向きなおって首を傾げた。
「……あのさ、切りつけられといて警察行かねーのか?随分気丈な女の人だな」
男性は、視線を傍らへ戻して肯いた。
「いいんですよ。いつもの夫婦ゲンカの延長ですから。襲われた方に訴える気がないのなら、別段問題にはなりません。
見てのとおり、仲のよい二人です」
先ほどと同じ、面白がる瞳で彼はそんな風に説明した。
「仲のよい、か……?」
夫婦喧嘩で刃物が出てくることもすごいのだが、その話を信じるのならこの男性は間男である。間男が女とその夫の派手な喧嘩を目の前にしているにしては、どうにも不思議な態度だ。
それを楽しんでいるらしいこの顔も解せないし、かと言って悪意を持っているようにも見えない。
様々な意味でかなり疑わしそうに首を傾げる高耶に、ふいにその男性が手を伸ばしてきた。
「?」
差し出されたとしか思えないその大きくて綺麗な手と相手の顔とを交互に見比べて、高耶がもの問いたげな眼差しを浮かべる。
「―――これから時間はありますか」
相手の口からこぼれたのは、そんな台詞だった。
02/11/19
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