baby,baby!―――出会い編



「今夜はうちへ泊まってお行きなさい。寝室は二つありますから。
 ―――あぁ、普段使わないので少し埃っぽいかもしれませんね……私の方を使ってください。埃は赤ちゃんに悪いでしょうから」
 男は手作りの温かいスープを青年にふるまってから、そんなことを言った。

 近くの大型スーパーに出かけて赤ん坊に必要な品物を幾らか揃えてきた彼らである。
 男は青年に事情を尋ねることは一切せず、ただどの品物がどれほど必要であるかということだけを、腕の中でむずかる赤ん坊の若い父親に求めた。
 不機嫌な赤ん坊を抱いて、憔悴したような顔をした青年の手をひくその姿が、他の客たちにどのような印象を与えたのかということも、彼は全く気にしていない様子だった。

 例えば溺れた人が船に助けられたとき、無条件に救い主の好意を受け取る権利を有しているように、男にとって青年と赤ん坊に手を貸すことは至極当然のことであるようだった。

 当の赤ん坊はといえば、今は粉ミルクと新しいおむつに満足してぐっすりと寝入っている。その寝顔は先ほどまでのむずかりようが嘘のように愛らしい。
 一方の青年は今にも泣きそうな顔をして、向かいに座って自分を見つめてくる男の目を見ている。
 黙ったままの彼に、男はああと頷いて、
「お風呂がまだでしたね。すみません、今日はお湯を溜めていないんです。今から溜めてもいいんですが、それともシャワーで構いませんか?」
 小さく首を傾げてそう尋ねる。
 この期に及んで何も聞こうとしない男に、青年は自ら問うた。
「なんで、何も聞かないんだ」
 彼は掛けた椅子の上に固くなっている。
 膝の上に両の拳を置いて握り締め、その体は緊張のあまり震えていた。これまで置かれてきた厳しい状況、今目の前にいる相手への警戒と緩みとが、彼の中で限度を越える感情の奔流となって制御のつかぬ極度の緊張をもたらしている。
 男はそんな様子に痛ましく目を伏せると、再び開いて今度は相手に微笑みかけた。
「今はゆっくりお休みなさい。あなたはとても疲れている。
 明日の朝でも、いつでもいいから、話してくださる気になったときに」
 その瞳は親のような情愛を湛えていて、青年の双眸から涙がついにこぼれ落ちた。
 男は困ったような顔をして、手を伸ばす。
 どうしたらいいのかわからない。
 そうして、相手の頭を撫でるよりほかに思いつかなかった。






 二人はともに不器用だった。
 胡散臭い限りの子連れ青年を泊めようとする男しかり。
 そんな裏があるとしか思えない行動をとる男にすがりついてしまっている青年しかり。
 もしそのどちらか一方でも、もっとしたたかであったなら、もう一人はすっかり騙されてしまったろう。
 二人はともに不器用だった。
 だから、それでよかったのだ。

 男はやがて、椅子から立ち上がって青年の前まで歩いていった。
 そして身を屈め、顔を伏せて涙を落とす彼をしっかりと抱きしめた。
 青年はおとなしくなされるままに身を預け、広い胸の温かさによりいっそう涙を募らせた。
 これまで得られたことのなかった、温かい腕。
 広い、厚みのある胸に顔を押しつけて、彼はただ、泣いた。
 これまでのつらかったことを、苦しかったことを、流せなかった涙をすべて、ここに吐き出した。
 男のシャツがすっかり濡れてしまうまで、彼はすがりつくように顔を埋めて嗚咽をもらし続けた。

 ガ、キ……みてぇ……

 いいんですよ。私からみれば、あなたも十分子どもなんですから……。
 そんなに張りつめないで。肩の力を抜いて羽根を休めてごらんなさい……


 ソファの上に敷かれた柔らかいタオルケットの上に寝かされていた赤ん坊が空腹を訴えて泣き出すまで、二人はじっと互いの温もりに安らいでいた。






 翌朝、男は一人、身を起こして煙草を口に銜えていた。
 赤ん坊を気遣って、火は点けていない。あまり意味のないことをしていると自分でも思うが、何となく口元が淋しいのだ。
 実をいうと、昨夜は殆ど寝ていない。
 頻繁に目を覚ます赤ん坊の相手をしながら、物思いにふけっていたためだ。

 思うこと。
 男は音もなく立ち上がって、リビングを隔てた向かいの寝室の戸口に立った。
 ベッドに丸くなっている青年の傍へそっと近づく。
 まるで外界を拒絶するかのように丸く手足を縮こめて眠る胎児のような姿が、不憫だった。
 頬には泣いたらしい跡が残っている。
 男は口に銜えていたシガレットバットを指で挟んで抜くと、青年の傍らに腰掛けた。
 ギシリ、とベッドが沈むが、青年が目を覚ます気配はない。

「つらかったんでしょうね……」
 手を伸ばして、顔にかかっている黒い髪を梳くように直してやる。
 露になった寝顔はまだ幼さを残したもので、この青年がいかに若いかが見て取れた。

 二十歳になるかならないかで、生まれたばかりの赤ん坊を抱え、母親もなく、おそらくは身寄りもなく、この青年はこれまで生きてきたのだ。
 さっきまで弱い泣き声を上げていた小さな命は、まぎれもなくこの青年の血をひくもの。
 生き写しのような真っ黒の瞳が、何よりも雄弁にそれを語っていた。
 一体どういう経緯で子どもができたのか。なぜ母親はここにいないのか。
 疑問は尽きない。けれど、今は問う時期ではないと思う。
 無理強いして聞き出すようなことではない。青年が自ら話そうと思ったときに話してくれればいい。
 ―――そこまで考えて、いつのまにか明日も明後日もその先にも二人と共に暮らすつもりになっている自分に驚く。
 しがらみを嫌い、自ら縁を切って家を捨てたこの自分が、誰かと共に暮らすことを考えるだなんて。
 おかしいな……
「……」
 青年の頬にそっと手を滑らせて、名前も知らなかったことを思い出す。
 何も、訊かなかった。
 けれど、それでいい。性急に問う必要はないはずだ。ゆっくり、知ってゆけばいい……






 男は、名も知らず懐へ受け入れた青年を見下ろし、久しく忘れていた穏やかな感情を自覚していた。
 何かを腕の中に抱きしめて守ってやりたい、そんな甘い喜びと望みが、胸に生まれている。
 母性にも似た、本当に久しぶりの温かい感情。

 男は、ゆっくりと長い息を吐いた。
 何かを噛み締めるように、ゆっくりと。

 そして、丸くなって眠る青年へと視線が戻される。

「あなたがせめて……少しでも力を抜いて眠っていられるのならいいのに」

 強張った手足と眉根が痛ましい。
 男は、優しく眉間の皺をほぐしてやった。指の腹で、そうっと、何度も何度も。
 撫でるうちに、青年は眉間だけでなく体全体の力を抜いていった。
 丸くなっていた体が、だんだん楽な姿勢に変わる。
 拒絶から無防備な甘えへと変わってゆく一連の変化を、男は奇跡を見る思いで見守った。
 やがて―――
「……っ」
 伸ばされた足が、ベッドに腰掛けている男の脚にぶつかって、その衝撃からか青年は目を覚ましてしまった。
 一瞬自分がどこにいるのかわからなかった彼だが、すぐに昨夜のことを思い出し、同時に、頬に触れている手の存在に気づいたようである。
 横を向いていた瞳が、ぱっと上へ向けられた。
「お早うございます。でも、もう少し寝ていたほうがいいですよ。まだ随分早い」
 降ってきた豊かな低音と、やさしくて温かい眼差しに、青年は思わず瞳を揺らした。
「あ、の」
「また後で起こしてあげますから。お休みなさい」
 はだけていた上掛けを肩まで引き上げてやって、男はベッドから降りた。
 上半身を起こしたものの、どうしたらいいかわからずに口を半開きにしたままその動きを見ていた青年が、微笑んで背中を向けた男に小さく声を投げかける。
「めっ……明は」
「赤ちゃんでしたら、眠っていますよ。さっきミルクをあげましたので」
 戸口のところで振り返って、男は答えた。
「安心なさい。私が看ていますから。だからあなたはもう少し眠るん―――」

 振り返って、青年の眼差しにはっと息をのむ。
 捨てられた仔猫のような、縋るような瞳が……







「何て顔してるんですか……」
 打たれたように立ちすくんだ男は、呆然と呟いた。

 青年の瞳。
 なんて瞳をしているのだろう。
 薄汚れた世間ずれの無関心を何もかも貫き通して心臓に突き刺さる硝子の欠片。
 雄弁な瞳。けれど無言の唇。動かない心。否、動いていることを知らないハート。

 男は踵を返す。
 足早に傍らまで戻って、枕元に膝をついた。
 目の高さを合わせて顔を覗きこむ。
「え……?」
 青年は不思議そうな声で小さくこぼした。
 自分がどんな顔をしているのか、本人はわかっていないのだ。
「どうしたんですか……自分でわからないんですか、どうしてほしいのか」
 男は不憫さに声をつまらせた。

 この青年は、自らの甘えを誰かに訴えるということを知らない。
 淋しいと、不安なのだと、言って縋ることができないのだ。
 こんなにも雄弁に表情が語っているのに、それを誰かに伝える術を知らない。
 いや、むしろ自分がそんな想いでいるということを自分で気づけないのだ。

 こんなにも飢えているのに、気づいていないのだ。
 誰かの手を求めているということに。
 それほどまでに孤独なのだ、この魂は―――。

「淋しいんでしょう、不安なんでしょう?どうしてそれを言えないんですか。気づいていないんですか、自分の気持ちに」
 男は戸惑った様子で視線を彷徨わせる青年をきつく抱きしめた。
 もう、見ていられない。
 あまりにも切なくて。
「そんなに……今にも泣き出しそうな顔をしているくせに……言ってください。ここにいる。私がいるでしょう?」
 抱きしめて、低く呻くように呟く。
 嗚咽をこぼしかかっているのは男の方だった。







 昨夜と同じ、男の腕は大きくて温かかった。
 そして、小刻みに震えていた。

「オレ……淋しいのかな」
 青年が、ぽつりとこぼした。
 戸惑ったような、不安で小さな声だ。
 男はその肩口に顔を埋めて、肯いた。
「そうですよ。一人でいるのが怖いんですよ。誰かを探している……」
 背中を労わるように撫でた。

「そっか……。淋し、かったん……だ……」
 青年の体から、ゆっくりと力が抜けた。
 男に全てを預けて、くたりと眠りに落ちていった。
 強張っていた体は、完全に力を抜いて、ようやく安らぐ。

「ここにいるから……ゆっくりお休みなさい」
 男は重みを増した体をゆっくり横たえて、枕元に腰掛けた。




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