baby,baby!―――出会い編
青年は腕の中の赤ん坊の里親になってくれる人を探して駅の出口に佇んでいる。
どんなに無謀で破天荒な行動であるかはわかっていても、他に道は無いのだ。
けれど、さすがになかなか実行には移せず、彼は何度も足を踏みだしかけては引っ込めるという動作を繰り返していた。
これぞ、と思っても喉はからからに乾いて音を作らない。
舌は固まってしまっていて動かない。
足は根が生えたように地面に縫い止められて動けない。
彼はそうして、行動に出ることができぬまま、人待ち顔に佇む結果となった。
―――そんな姿を、少し前から見ている人間がいた。
ごく普通のサラリーマンであろう、三十代前半の男である。
彼は青年の側を一旦通り過ぎた後に、どうしてもその様子が気に掛かって足を停めていた。そうしてしばらく青年の様子を心配そうに見守っていたが、やがて向きを変え、ゆっくりと歩き始めた。
「どうしよう……明……」
青年は胸に抱いた赤ん坊を強く抱きしめて顔をその髪にうずめた。
赤ん坊特有の甘い匂いが鼻孔をくすぐって、その甘さがよりいっそう彼の空しさに拍車をかける。
かわいそうな赤ん坊。
父親も母親も若すぎて、その上母親はもういない。
まともな子育てのできる環境ではない。
そんな状況でも、赤ん坊は変わらぬきれいな瞳をして父親を見上げている。
物言わぬ唇はほころんで、小さな拳で彼にさわろうと無邪気に身を乗り出す。
あまりにも不憫で、涙が出た。
「どうしよう……」
呟いて涙をこぼしたとき、ふと目の前に人の立つ気配がした。
「あの……」
声を掛けられる前に、叫んでいた。
「こいつの……母親になってやってくれ……!!」
ずっとずっと言えずにくすぶっていたその一言を、思いきり迸らせた。
そうして言い切ってしまってからようやく顔を上げると、目の前にいたのは物腰の柔らかな男性だった。
「とりあえず掛けていてください。お茶でもいれましょう」
男は言って、抱いていた赤ん坊を青年に返した。
駅の出口で劇的な出会いを果たした二人―――もとい『三人』は、悪目立ちした場所を離れて一先ず男の家へと辿り着いている。
普通でない様子の青年と赤ん坊がどうしても気に掛かって声を掛けた男は、突然母親になってくれと叫ばれてひどく戸惑ったが、顔を上げた青年の表情を見るや、彼の手を引いて歩き出した。
このまま放っておいてはいけない。
青年の事情もわからず、ただその表情にそう感じ、彼は相手の腕の赤ん坊を抱き取って大事に抱えると、ついていらっしゃい、と青年を先導したのである。
男の家は一人で住むには広すぎるのではないかと思われるようなマンションだった。
廊下の突き当たりがリビングダイニング。十畳ほどの広さがあり、手前のコーナーがL字型のキッチンスペースになっている。
リビングの右手に並んでいる襖とドアは、寝室に続いているようだ。リビングに入る手前にもドアがあり、それも寝室の入り口だとすれば、3LDKということになる。
会社勤めの男が一人で住むにはあまりにも広すぎると思われる空間だが、彼が妻子持ちでないということは青年にはすぐに見て取れた。
まるで生活感の無い空間。
モデルハウスのようだと言えば聞こえはいいが、この家は到底『家庭』とは呼べそうにない。
houseではあっても、homeではないのだ。
もし他に誰か人間が―――例えば妻が―――いれば、彼女がどんなに綺麗好きで掃除好きだとしても、これほどがらんとした空間にはならないだろう。人が居るということ自体が、必ずその空間に生活感を与えるはずだから。
まるで人間の気配のしない殺風景な部屋を見回して、青年は何だか悲しくなった。
しかし、胸を痛める時間もなく腕の中の赤ん坊が盛大に泣き出して、彼は一先ずその気持ちをどこかへやることになった。
「おなかが空いたんでしょうか」
青年が泣き出した赤ん坊を揺すぶってあやしていると、湯気をたてるポットを持って、男がキッチンスペースから出てきた。
鼻腔をくすぐる香りは紅茶のそれ。
テーブルの上に置かれたお盆の上に布巾を敷いて伏せてあったカップを引っくり返すと、彼はポットを傾けて濃い琥珀色の液体を注ぎ込んだ。
「赤ちゃんのミルクはないんですか?それからおむつは?」
ポットをテーブルに置いた男は、泣きじゃくる赤ん坊にそっと手を伸ばして、特有の綿毛に似た柔らかな髪をあやすように撫でながら、腕にその小さな生き物を抱えている青年に尋ねた。
青年の首は横に振られた。
「持ってない……」
そのまま消えてしまいそうな声でそう呟いて、目にいっぱいに涙をため、彼はそれを隠すように顔を伏せた。
赤ん坊のための用品すら満足に所持していない事実が悲しくて悔しくて情けなくて……そんな 彼の心情と、その状況に追い込まれるに至らしめた何らかの事情の存在を読み取って、男は手を伸ばす。
「では買いに行きましょうか。これではこの子がつらいだけでしょう」
わけありであるらしいその青年の頭にも手を触れて、髪を優しく撫でてやった。
青年は大きな掌に頭を撫でられて、ますます弱った。
妻がいなくなってから、この世に味方なんてただの一人も持たず、赤ん坊とたった二人きりで生きてきた彼にとって、久しぶりのその感覚は涙腺を緩ませるに充分足りるものだったのである。
優しくて温かい掌の感触に、彼は腕の中の赤ん坊の泣き声をさえ、しばし忘れていた。
「ああ、あなたまで泣かないで……。さあ、行きましょう。あなたも来てくださらないと、私にはよくわからないので」
男は言って、むずかる赤ん坊を青年の腕から抱きあげた。
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