images by NORI's!baby,baby! ... “まいごのまいごの仔猫ちゃん”
「お帰り、直江!」
いつものようにタックルで伴侶の帰りを迎えた高耶を抱き返し、橘家の家長であるところの男は仕事の疲れを感じさせない優しい瞳で微笑んだ。
そのまま、慣れた仕草で青年の腰を抱き寄せて顔を近づけてゆく。
「ただいま、高耶さん―――」
「なーっ!」
まだまだ新婚の二人がただいまのキスをしようとしたとき、どん!と二人の足下に体当たりしてくる襲撃者がいた。
よちよち歩きに加えて、全力疾走にも目覚め始めた幼い娘である。
大好きな『なー』が帰ってきたことに気づいて飛びついてきた彼女に、すっかり子煩悩になっているパパは相好を崩した。
しかし、今は先ず、中断されたただいまのキスの続きが肝心である。
「ただいま、明ちゃん。すぐに抱っこしてあげるから、ちょっと待ってね」
身をかがめて大きな優しい手のひらで娘の頭を撫でてやると、少しばかり淋しそうな顔になっている伴侶へと向き直り、
「あなたへのただいまが先ですからね」
と、僅かに尖った唇を啄ばんだのだった。
家長の帰宅と入浴の後、一家は夕食の席についた。
人並みはずれて長身の男に合わせた背の高いテーブルセットに、彼とその伴侶とその娘とがそれぞれの定位置へ収まっている。男の向かいに伴侶の青年、その隣にベビー用の椅子を置いて、幼い娘が座るという状況だった。
マグに入れたコーヒーを啜って、男は高耶へ言葉をかける。
「今日は何か変わったことはありましたか?買い物に出かける予定でしたね」
「ああ、それがさあ」
茶碗を片手に、炊飯器からご飯をよそいながら、青年は頷いた。何だか大変なことを思い出すような表情になった彼に、直江はおやと目を見張る。
「何かありましたか?」
「実は、明が迷子になったんだ」
「ええ !? 」
男は受け取った茶碗を取り落としそうになり、慌ててテーブルへと下ろした。
「デパートでセール品を選んでるとき、うっかり目を離してたんだ。気づいたらもう姿が見えなくて……」
高耶は隣のベビーチェアでスプーンを握って食事と格闘している娘を見やりながら、呟いた。
「それは、大変でしたね……連絡してくれたら飛んでいったのに」
さぞ驚いたことだろうと彼の心中を思いやり、直江はそっと手を伸ばす。さらさらと心地よい触り心地の髪を梳くようにしながら言ってやると、相手は喉をくすぐられた猫のように気持ち良さそうに目を細めた。
「うん……血の気が引いてさ、どうしようどうしようって右も左もわからなくなって、咄嗟に直江に電話しようと思ったんだ。それで、電話を探そうとして歩き出したとき、アナウンスが入った」
「アナウンス?」
「そう。迷子センターから。一人でうろうろしてる明を見つけてそこまで連れていってくれた人がいたんだ」
「そうでしたか……本当に、無事で良かったですね。今更何を考えてもしょうがないですが、そのときのことを想像するだけで背中が寒くなります」
男はぶるりと肩を震わせ、目の前で機嫌よく緑色の離乳食を口に運んでいる子どもに目を移すと、心底安堵したという表情で見つめた。
「心配かけてごめんな……もう絶対にこんなこと起こさない」
対する若い父親は、子どもを心から慈しんでくれる伴侶へ向かって、強く誓ったのだった。
「そういえばさ、その人、明を迷子センターに連れて行ってくれた人に、お礼代わりに昼飯をご馳走したんだけど、びっくりなんだ」
今日は色々なことがあって疲れたのか、夕食の途中からこくりこくりと眠りに落ちていった幼い娘を父親二人は幾分狭くなってきたベビーベッドへと連れてゆき、引き返してきて二人きり水入らずの時間を持った。
一緒に夕食を摂り、仲良く洗い場で食器の始末をして、玄米茶でティータイム。
ソファに並んで腰掛け、湯呑みを手のひらに収めているとき、ふと高耶が今日の事件についての話を再び口にした。
「びっくりって、何が?」
「その人、保育士やってるんだってさ。このマンションにもお迎えバスが来てる、さくら保育園の」
「さくら保育園ですか。それは確かにびっくりですね」
「で、それだけじゃないんだよ。千秋は今日が誕生日だったんだ」
「今日?」
「エイプリルフールだけど、冗談てわけじゃないらしい。だから、ケーキ買って、食べてもらった」
千秋修平がくれた名刺をポケットから出して直江に渡し、一部始終を説明した高耶に、相手は何度か相槌を打ちながら聞き入り、そして、話が終わった時に今度は質問を口にした。
「千秋という人は、どんな人でしたか?あなたや明ちゃんが打ち解けたのだから、きっといい人でしょうね」
「ああ。根がいい奴なんだと思う。髪が金色だったり派手なシャツを着こなしてたりしたけど、明がじゃれついても全然嫌な顔せずに遊んでくれたし」
身なりに気を使う人間は大抵、容赦のない子どもの悪戯を嫌がるものだが、昼間出会ったその新米保育士は確かに保育士らしく、子どものするままに受け入れて且つ楽しんでいたのだ。それを思い出しながら頷いた高耶に、直江は、ふむ、と首を傾げて、心を決めたように伴侶へ向き直った。
「そうですか。……ねえ、一つ提案があるんですが」
「なに?」
何気なく首を傾げた高耶は、相手の次の台詞に目を見開くことになる。
「明ちゃんをさくら保育園に預けてみませんか?昼間だけ短時間で」
「……なんで……?」
激しい不安に押しつぶされたような表情になった彼の口から、小さな声をこぼれ落ちる。伴侶が子どもを外へ出したがっているのかと思い、彼は絶望の淵を覗き込んだのだろう。
「ああ、そんな顔しないで……」
直江は一時でも高耶を悲しませたことを悔いるように、愛する伴侶を懐へ抱きしめた。
「明ちゃんを邪魔にするわけじゃないんです。家事を引き受けてくれているあなたが、一日中つきっきりで明ちゃんを看ているのは、あまりにも大変なことだ。もうすっかり動き回るようになったし、あなたが自分のしたいことをする時間が三時間でもできれば、きっと良いんじゃないかと思ったんですが……余計な気持ちでしたか?」
高耶が育児ノイローゼになっているなどという心配があるわけではない。ただ、家のことを大半引き受けている彼が、幼い子どもとたった二人きりで長い長い一日を過ごしていることが、働き手として外に出ている直江にとっては、ずっと前からの気がかりだったのだ。
乳飲み子のうちはよそへ預けるわけにはゆかないが、歩いたり走ったりもできるようになった今なら、昼間の二三時間だけ預けて、その間、高耶がゆっくりと自分のしたいことをできたらいいと思ったのである。
「余計だなんて……」
親鳥のような広い胸に抱かれ、昼間の一件以来どこかささくれ立っていた心が、ほっと解けてゆくのを、若い父親はじんわりと感じていた。
「明ちゃんにとっても、他の子と接する機会ができるのはいいことだと思いますよ。勿論、本人が嫌がったらやめなければなりませんが」
「うん……」
背を抱く腕がとんとんとゆっくりのリズムで叩いてくるのを、目を細めて受け入れながら、高耶は頷いた。その額に愛しげに頬を寄せて、直江がさらに言葉を続ける。
「あのね、高耶さん。うちの近くに大学があるでしょう」
「ああ、あるな」
とろんとまどろむような目になってこくりと頷いた高耶は、次の言葉にまたも驚くことになる。
「高耶さんは、聴講生制度というものをご存じですか?」
「え、っ…… !? 」
言葉の意味がわかるから、相手の意図に気づいたから、高耶は目を見開く。
「あの学校では四月始まりと十月始まりで聴講生を受け入れているんです。もしその気があったら、明ちゃんを預けている間、行ってみたらいかがですか?」
びっくりした目の傍にくちづけを落としながら、直江はとても綺麗に微笑んだのだった。
「お礼なんて言わなくていい。……一つだけおねだりするのなら、そうですね―――」
―――五月の私の誕生日には、あなたのお手製のケーキを食べさせて―――
* fin. *
04/04/10