「こら、明!お前はまだケーキは食えないんだよ。だめだってば!ああもう、手え突っ込むな!」 青年の膝の上の赤ん坊は、初めて見るケーキに興味津々。 身を乗りだし、小さな手をのばしては白いふわふわしたクリームに手を突っ込もうとする彼女に、青年は閉口気味だ。 何とかしてその拳からケーキを守ろうとするのだが、なかなかに相手も手強い。両手を握りこんでしまいでもしないかぎり、その攻撃を防ぐ手だてはなさそうだった。しかしそうしてしまうと彼自身もケーキを食べることができなくなってしまう。 そんな二人の攻防を目を細めて眺めていた男が、ふと悪戯な笑みを浮かべた。 「ね、高耶さん、明ちゃんの両手を押さえていてください。食べさせてあげましょう」 つと手を伸ばし、青年の皿のフォークを取ると、壊れかかっているケーキの無事な部分から一口分ほど切り取って相手の口元へ持ってゆく。 「はい、あーん」 くすくす、と笑いながら下から見上げるようにして青年の瞳を覗いた男に、相手はぽかんと顔を固まらせている。 けれど、やがてその瞳がにやっと笑うと、彼はまるで挑むように顎を突き出した。 近づいてきたフォークに、かぷり、と噛みついて、ふわふわしたクリームと甘いスポンジを舌ですくい取る。 そうしてそれを飲み込みながら視線を上げると、微笑んだままの茶色い瞳に出会って、彼らは示し合わせたように笑い出した。 「たー?なー?」 置いてきぼりにされた赤ん坊が小さな唇を尖らせて不満を表現する。 その声で悪戯を終わりにし、男は彼女に向かって両手を伸ばした。 「明ちゃんをこちらに渡してください。その間に食べて」 「おう。ありがと」 青年はようやく笑いを収めて、膝の上で拗ねている赤ん坊の脇の下に手を入れると、びろん、と持ち上げてテーブルをまたがせた。赤ん坊はその不安定な姿勢に面白がって、きゃっきゃっと歓声を上げる。 「なー!」 男の大きな手に抱きとめられた赤ん坊は、今度はケーキから男の方へ対象を移したようで、ネクタイを外してシャツだけになっている胸を小さな掌でぽかぽかと叩いて楽しんでいる。そのさまをこの上なく愛しげに見守り、男は男で楽しそうだ。 そんな二人の様子を眺めながら、青年はようやくケーキにありつくことができた。 「ね〜明ちゃん、なーが好きですか?」 さくらんぼのような頬を突つき、男はそんな風に赤ん坊に話しかける。 相手の方は意味がわかったのかどうか、ぽわんと笑顔になった。 「〜〜っ!」 パンダも裸足で逃げ出すような愛くるしい笑顔に、男は声にならない悲鳴をあげる。 その興奮は一人では鎮められないようだ。 「高耶さん……明ちゃんが私を好きだって言ってくれました」 至福の笑顔を浮かべて彼は青年に報告した。語尾には間違いなくハートマークがついている。 まるでつぶらな瞳をきらきらさせて喜んでいる犬のようで、青年はくすりと笑みを返した。 「……で、ケーキも食べ終わったことですし、プレゼントを開けてくれませんか?」 青年が皿を流しに運んでいる間に、男は横に置いていた紙袋を取ってソファに掛けた。 ちなみに赤ん坊はその傍らに座らされて、何やら一人できゃっきゃっと楽しそうに笑っている。 「ありがとな。何だろ?」 青年は食器を水に浸けると、エプロンをはずしてソファの方へ歩いてきた。 男の隣に腰を下ろして、紙袋の中を覗き込む。 袋の中に入っていた包みを半分解いて、青年が顔を上げた。 「これ……」 照れたような、困ったような、複雑な表情で男を見上げる。 「つまらないもので恐縮ですが……こういうのもいいかと思って買ってしまいました。着てくれますか」 男は相手の反応に少しびくびくしながら微笑んだ。 落ち着かない視線がその動揺を示していて、青年は思わずくすりと笑う。 彼は黙って包みを完全に開き、リビングテーブルの上のペン立てから万能鋏を取り出して、タグを切り取った。 そうして一度ばさっとそれを広げ、軽く上下に振ってから再び簡単に畳み直す。 「さっそく着ようぜ。風呂上がったら」 畳みなおした三着のお揃いパジャマをわきに置いて、彼は男にそう言った。 ありがとう、と。 「変なものですみません」 何で誕生日プレゼントにお揃いパジャマなのか。自分で自分にツッコむ男だったが、着たいと思ったものは着たいのだ。家族三人で同じパジャマという、幸せを経験してみたかった。 「なんで、オレは嬉しいぜ。明も喜ぶと思うし」 青年はなぜか少し赤くなってそんな風に呟いた。 「ありがとうございます……それから、これは明ちゃんに」 男は相手のそんな顔に慌てたように視線を落とし、袋の中から別のものを取り出した。 円形の箱に可愛いリボンを掛けたものだ。それを受け取って赤ん坊の代わりに開けた青年は、中身を見て顔を崩した。 「うわぁ……」 中に入っていたのは、銀色のベビースプーンとフォークだった。 取っ手の部分が曲げられて輪っか状になった、赤ん坊専用のタイプである。先なども丸く切られていて、非常にかわいらしい。 「かわいいでしょう?ちょうど目について、少し早いですが明ちゃんのテーブルセットにと思ったんです」 「ありがと。明のためにわざわざ」 青年は右手を伸ばして赤ん坊の柔らかい髪を撫でた。きゃっきゃっと喜ぶ娘に頬をつついてやると、さらに面白がってばたばた動く。 「明ちゃん、あんまり暴れるとまたこけますよ」 男が、頭の重さでころんと転げかけた彼女を支えてやって、小さな拳を愛しげに掌に包み込んだ。 「このお手々ではまだしばらく使う時期は来ないでしょうが、前もって準備しておくのって楽しいものですね」 そう言って嬉しそうに微笑む男に、ふと青年の瞳が翳った。 その『少し先』もこうしていられるかどうかはわからないのだ。今だって勝手にオレたち二人がこの家に割り込んでいるだけで…… 「高耶さん?」 黙ってしまった青年を、男が心配そうに覗きこんできた。 「すみません。何か悪いことでも言ってしまいましたか?」 「……何でもねーよ」 そんな風に優しい眼差しをくれる。それに慣れてしまった。与えられる温かな心遣いに、すっかり慣らされてしまった。 こんなに弱くなってしまって、また二人に戻ったら、どうやって生きていけるだろう? 一度与えられた温かな寝床に慣れてしまった野良猫は、再び野良に戻ったとき、きっと生きていけない。 「……そうですか?とてもそうは見えない」 「何でもねぇってば」 ついに向こうを向いてしまった青年に、 「たー?」 赤ん坊が小さな手でそのTシャツを握る。くいくいと引っぱられて、青年は胸が一杯になった。 小さな体を持ち上げて胸に抱きしめる。 そうして青年は柔らかな髪に顔を埋めた。 「たー……」 赤ん坊は抗議するようにその胸を叩いている。 「めい……」 体温の高い、けれど悲しいくらいに小さなその体を、青年の腕がよりいっそう強く抱く。 この世にたった二人きり。 あの恐怖が再び襲ってきて、青年は震えていた。 この世に自分たちはただ二人だけ。誰もいない。子どもの自分と、赤ん坊。その二人きりで、広い広い世界に立ち向かう。 怖い。 小さな命を腕に必死に抱きしめて、一人で彷徨う闇―――。 怖い…… そのとき、二人を男の大きな腕が抱き込んだ。 「なお?」 「……どうして」 なぜだか男の声の方が震えていた。 「どうしてそんな風に二人だけで丸くなるんですか?そんな悲しい姿、見せないで……」 赤ん坊を抱く青年を、さらにその外側からすっぽりと抱き込んで、まるでその胸はひなを守る親鳥のよう。 温かく、優しい腕。翼。 それなのに、男の方がよほど、何かに縋りつきたいような顔をしていた。 「あなたにお願いがあるんです」 男はやがて、青年にそう囁いた。 「二十歳になるまで、と思って待っていたんです」 「……なに?」 緩んだ腕に、青年は顔を上げた。 「家を作りませんか」 「家。三人で、一つの家を作りましょう。幸せな家を。 家族に……なりましょう」 男は泣き笑いにも似た表情で、鞄から一枚の紙を取り出した。 「直江…… !? 」 青年が目を見開いている。 「これに記入して判を押してください。お願いします」 テーブルの上に置かれたのは、入籍届だった。 婚姻でも、養子でもなく。一つの『家』に住む家族となるために一つの新しい戸籍をつくる、そのための届だ。 男の名と判は、既に記入済みだった。 「なおえ……」 青年の顔が歪んだ。 「こんなことを言われても迷惑かもしれませんが、私にはもう、あなたと明ちゃんのいない生活なんて考えられないんです。 ずっとここで一緒に暮らしてほしい。だから、家族になりたいんです。 ……お願いします……!」 ―――青年の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 「高耶さんっ !? 」 男は慌ててハンカチを差し出した。 その手をぐいと引き寄せて、青年が額をこつんとあわせる。 「ありがと……」 あふれてきた笑顔は、きっと生涯最高のもの。 「ありがとう……」 他に何も言葉が見つからない。 二人だけじゃない…… お前がいる。 三人で……家を作る…… ああ、明るい―――お前の笑顔、明の笑い声、輝く日の光…… 「なおえ……」 唇を、触れ合った。 そっと、触れた。 誓いの口づけ……。 「これからよろしくお願いしますね」 「あぁ、オレの方こそ」 二人はそれから、赤ん坊を体の間に持ってきて両側からその頬にキスをした。 「たー?なー?」 くすぐったそうに身をよじる彼女に、二人は微笑みあった。 まえ