baby,baby!











 うわぁぁん ……

 小ぢんまりとしたそのマンションの一室に、乳児の泣き声が響いた。

 スーツに袖を通していた長身の男が、はっと表情を動かして、
「高耶さん、メイちゃんが泣いてます!」
 とリビングの方へ声を掛けながら足早に音源へ向かった。
「ちょっと待ってくれ。今、油やってて手が離せねえ。抱いてやって」
 リビングの一角にあるキッチンスペースから声が返る。
 まだ若い、青年といっていい声だ。
「は、はいっ」
 一方の男は、緊張したようないらえを返して、寝室の入り口付近に置かれているベビーベッドまで駆け寄ると、その中で小さな体を一杯に震わせて泣き喚いているものに両手を伸ばした。
 屈み込むようにして大きな両手の平を赤ん坊の背中の下に差し入れ、タオルケットごと慎重に抱き上げる。
「明ちゃん、どうしたんですか……おなかが空いたの」
 まだ少し慣れない仕草で赤ん坊を胸に抱き寄せると、ゆっくり揺すってやりながら話しかける。
 新米パパの見本のような図だが、体の揺らし方に危なげがないところから見ると、ほやほやというほどでもなさそうだった。ただし、第一子であることには間違いはなかったが。
「ふ……ふぇ……」
 赤ん坊の方はそれで少し落ち着いたようだ。
 涙をぼろぼろこぼしていた大きな黒い瞳をじっと見開いて男を見つめたものだから、男は愛しさのあまり絶叫しそうになった。
 赤ん坊は真っ黒な瞳と髪をして、健康そうなぷくぷくした肌を持っている。五ヶ月といったところか。
 一方父親らしい男の方は子どもとは明らかに系統の違う、茶色の髪と瞳をしていた。外見的には似ているところはなさそうだ。
 彼は、両手が塞がっているのだからどうしようもない、と自分に言い訳をして、嬉々として赤ん坊の目じりに唇を近づけた。
 こぼれた涙をそっと吸ってやり、濡れた頬にも同じようにキスをする。
 そうしていると、
「あああ!お前またオレの明にキスしやがったなっ !? どけっ放せ!」
 ふいにその背後で叫び声があがり、男の手からたちまち赤ん坊が奪い取られてしまった。
「明、めーいー、大丈夫か〜朝っぱらから男にちゅーされて気持ち悪くないか〜、よしよし」
 小さな拳で一生懸命にしがみついてくる赤ん坊に頬擦りしながら、乱入者―――エプロン姿の青年だった―――は傍らでしょげている男に言う。
「直江、朝メシできてるから。テーブルの上。時間ないだろ?オレこいつのミルク作んなきゃなんねーから、先に食ってろ」
 彼は赤ん坊とそっくり同じ漆黒の髪と瞳をしていた。顔立ちも同じ系統だ。
「高耶さん……一人で食べろというんですか」
 空っぽになった腕をうらめしそうに見て、男が悲しげな顔をする。
「だから、会社遅れちまうだろって。しょうがねーだろ」
 片手で危なげなく赤ん坊を抱いて、青年は床に落ちていたタオルケットを拾い上げた。
 それをベビーベッドの上に放り、
「ほら、リビング行くぞ」
 と袖を引く。
 男は青年が向きを変えたために体の横側に来た赤ん坊に、身をかがめた。すると、
「なー」
 ふと、赤ん坊が身じろぎした。
 一生懸命に手を伸ばして、男に触ろうとする。
「明ちゃんが私を呼んでます」
 その小さな手に指を与え、ぎゅうっと握られて、男はすっかりめろめろだ。語尾にハートマークでもつきそうな勢いである。
「は〜」
 青年は二人の間に飛び交う、らぶらぶ光線にため息をついた。
「わかったよ。抱いてろ。ミルク作る間だけだぞ、こいつ腹空かしてんだから」
 彼はそうして、赤ん坊を男に渡した。
「明ちゃ〜ん、なーですよ」
 幸せそうに見つめあい、ようやくお互いを得ることができた二人はご満悦だ。
 赤ん坊も空腹のことはどこへやら、すっかり満面の笑顔を浮かべている。
「なー」
 と男を呼び、嬉しそうにばたばたと動くさまは、悩殺ものの可愛さで、しばらく男二人はその虜となってぼんやりと和んでいた。

「あっ。やべぇ。時間が!」
 プシュー、とやかんの湯が沸く音がして、ようやく彼らは正気を取り戻し、あたふたとリビングへ向かった。
 向かう、と言っても、部屋を出ればそこがリビングなのだったが。

 朝食のテーブルについて、男は膝の上の赤ん坊を片手で支えながら、シリアルを口に運んでいる。
 赤ん坊は男に頬をすり寄せて甘えている。至極ご機嫌の様子だ。
 その横のキッチンスペースでは、哺乳瓶を片手に青年が湯の温度を真剣な顔をして計っている。
「おし、できた!」
 彼はやがて、満足そうに呟いて、できあがったミルクを持ってテーブルへと移動した。
「明、めーいー、ごはんだぞ〜」
 男の向かいに座って瓶をちらつかせると、赤ん坊が気づいて手をのばした。
「たー」
 青年を呼びながら、しきりにぱたぱたと手を振るのが可愛くて、再び男二人はほやっととろけた。
「たー!」
 動きを見せない青年に痺れを切らしたか、赤ん坊の声がとがる。
「たーっ」
 みたび呼ばれて、青年はようやく赤ん坊に手をのばした。男が脇に手を入れて持ち上げ、相手にそっと渡すと、青年は危なげなく抱き取って自分の膝に座らせてやると、子どもの小さな唇に瓶の口をあてがった。
 赤ん坊は幸せそうな顔をしてゴム製の乳首に一心に吸いついている。
「……可愛いよなぁ」
「本当に」
 その顔をとろけそうな眼差しで見つめ、男二人はしばし、和んだ。

 この家には他には人間がいない。三人家族だ。
 家長らしき三十代の男と、まだ成人したばかりの青年と、そして、赤ん坊が一人。
 子どもの母親は見あたらない。
 男が父親だとするならば、青年はその息子であろうか。そして赤ん坊は青年の妹。
 しかし赤ん坊は男よりもむしろ青年にそっくりだし、男が父親であるにしては青年の年が大きすぎる。
 一見して、謎の三人家族だった。

 しかしそんな不思議さとは無縁に、三人は至極仲のよい家族のようだった。
 男二人は赤ん坊にめろめろで、赤ん坊も二人によく懐いている。可愛がられて育ってきたのを象徴するように、その体は健康そのもの。ピンク色の頬も、小さな手指も、すべてがはちきれそうに元気だった。
「明ちゃん、行ってきます」
 朝食を終えた男が、ミルクを飲み終えてとろんとしている赤ん坊の頬をそっとつつく。
「……たー?」
 寝ぼけまなこでむにゃっと声を上げた子どもに少し悲しげな顔をして、男は訂正する。
「なーですよ。
 行ってきます。今日も一日、元気でいてくださいね、明ちゃん」






 そして夕刻。
 男は、マンションの6階、4号室の前で一呼吸ついていた。
 その手には、書類鞄と、何やら大きな紙袋がある。
 それに視線を落として少し唇を綻ばせ、男は『橘』というプレートの下、控えめに存在感を醸し出している小さなチャイムに長い指を伸ばした。
「ただいま帰りました」
 コローン、という可愛らしい音がした途端に、内側へ扉が開き、
「お帰り、直江!」
 柔らかいものが抱きついてきた。
 普通ならびっくり仰天するところだが、これはこの家では見慣れた光景で、男は嬉しげに相手を抱き返している。
「ただいま、高耶さん。今日も明ちゃんの子育て、ごくろうさまでした」
 抱き返されたのは青年。今もエプロン姿だった。ついさっきまでキッチンに立っていたことが窺える。
「なー!」
 そして、リビングのソファから、この家のもう一人の住人の声が上がる。
 夜でも元気一杯の、橘家のお姫さま・明夜だ。
「なー、なーっ」
「直江、明が呼んでるぜ」
 大好きな『なー』の声を聞き違えるはずもなく、赤ん坊はしきりと男を呼んでいる。さらにはソファの上でばたばたと暴れる音まで聞こえてきて、二人は慌ててそちらへ駆け寄った。
 あまり広くもないソファの上で、赤ん坊が思いきり暴れれば、どうなるか。
「め、明!」
「明ちゃん!」
 危うくソファの端から滑り落ちるところだった赤ん坊を、間一髪、男が抱きとめる。
「……」
 声にならないため息が男二人の口からこぼれた。
「……明ちゃん、危ないからあんまり暴れないでくださいね。落っこちたらどうするんですか」
 辛うじて下に落ちることなく済んだ小悪魔は、寿命を縮めた顔で叱ってくる『なー』に手を伸ばしてご機嫌である。
 相手の心境など、これっぽっちも理解していない顔だ。尤も、高だか五、六ヶ月の赤ん坊に理解しろという方が無謀なのは確かだが。
 今の一件で恐ろしく脱力してしまった男たちだったが、それが治まってみると、途端に彼女のその愛くるしさに心を奪われる。
 大好きな男の腕の中で、嬉しそうにいごいごと動いてしきりと背広の胸に頬をすりつける、赤ん坊。
「なー」
 と呼んではその小さな拳でネクタイをくしゃくしゃにしてくれる。
 この上なく幸せそうに笑っている様子が、絶叫しそうになるほど愛しい。
「……まあ、こいつにかかったら、叱ろうと思っても形無しだよな」
 やがて、青年が緩む顔を懸命に歪めて苦笑した。
「ええ、本当に。自分がこんなに子煩悩だなんて思いもよりませんでしたよ」
 男は最初から苦笑しようと努める気配もなく、緩んだままの顔でそう答えた。
「なー、たー」
 そんな二人に気づいたのか、赤ん坊が二人の名前を続けて呼んだ。
「なーですよ、何ですか、明ちゃん〜?」
「どうした?腹へったのか?」
 交互に顔を覗きこむ『なー』と『たー』に、赤ん坊は極上の笑顔を見せた。

 二人が揃って惚けてしまったことは、言うまでもない。


「ああ、そうだ」
 メシの支度できてるし、座って先にメシにしよう、と青年が立ち上がると、男がようやく赤ん坊から顔を上げ、何かを思い出したように呟いた。楽しいことを思いついたような、どこか少年めいた笑みが唇に浮かんでいる。
「明ちゃんをお願いします」
 男は赤ん坊を青年に渡すと、先ほど玄関に置いたままになっていた荷物のところまで歩いていった。
「どうしたんだ?」
 赤ん坊を揺すってあやしながら、青年がそちらを向く。
「あぁよかった。無事だ」
 鞄ではなく、紙袋の方を覗いていた男は、ほっとした顔でそう独りごち、顔を青年に向けた。
「ケーキをね、買ってきたんです。今日、あなたのお誕生日でしょう?」
 言って、紙袋から箱を取り出して見せた。
「直江……」
 青年は驚いた顔で、その場に立ち尽くしている。
 男は紙袋と箱を持って、そちらへ歩いてきた。
「高耶さん?」
 固まっている青年を不審そうに見て、男は声を掛ける。さらにはその瞳が潤み始めたのを認めて、慌てて手を伸ばした。
「ど、どうしました?もしかして覚え間違えていたとか……いえ、そんなことないですよね、以前に確かに23日だと……」
「ちげーよっ」
 見当違いの方向に話を持っていく相手に、ようやく青年は反応を返した。
 赤ん坊の拳を持ち上げて、それで男の頭を殴るようにすると、彼は少し赤くなった顔で相手を睨み上げた。
「……覚えててくれて嬉しいんだよ。わりィか」

 とんでもない経緯でこの男のもとへ転がり込んで、まだ二ヶ月。
 いきなりコブつきの男が入り込んできたっていうのに、この男は嫌な顔一つしないで自分たちを受け入れてくれた。
 赤ん坊は元気でうるさいし、自分はこんなだし、迷惑しかかけてないのに、それなのに、この男ときたら。
 たった一度、話しただけの誕生日のことなんか覚えていてくれたのか……

「覚えていますとも。他でもない、あなたのお誕生日なんですよ。
 そして、明ちゃんが生まれてからちょうど半年だ」
 男はそう言って、最高の微笑みを浮かべた。

 あなたと明ちゃんに出会ってから、二ヶ月。
 初めて迎える大切な日だから、似合わないのを承知でおもちゃ屋とケーキ屋に寄ってきた。
 味気ないだけの毎日を、こんなに楽しくて幸せなものにしてくれた二人は、自分にとって、まるで空から舞い降りた天使のよう。
 神様からの贈り物。
 本当にありがとう……
 出会えたこと、一緒に暮らしていること、そして、あなたたちが生まれてきてくれたこと。そのすべてに。
 感謝しています。



「なー、たー」

 二人の天使が、二人を呼んだ。



つづき

02/07/23



高耶さんお誕生日企画でした。でも魁は明ちゃんラブ〜vvの勢いで書いておりました(殴)
ちなみに背景のうさぎさんはこの間マウスで落書きしていて書いたものです。背景差し替えてみましたv


ご感想など、bbsメールにていただけるととても嬉しいですv
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background image by : Akira Kai