太平洋のダイヤモンド。
―――と呼ばれる客船が、港にその巨体を横付けている。
夕方へ向かう斜めの陽光が海面とその体に降り注ぎ、一方はキラキラと乱反射を起こし、他方はその二つ名をさらに際立たせるかのように輝かせていた。
総トン数28,856トン、全長192.8m、全幅24.7m、喫水6.6m、最高航海速力21ノット、主機関はディーゼル・11,770馬力×2基、横揺れ防止装置はフィン・スタビライザー、乗組員は最大270名、客室数296、可能収容乗客数592名。
世界最大クラスとは差があるにしても、この船は日本の船舶の平均と比べれば最大クラスと呼べるものだった。
ところで、船籍をアフリカ大陸の沿岸国に置くこの船は、実際にはオーナーが日本人であった。
維持費用に大きな位置を占めるのは所有税だが、日本はそれが全世界の平均と比べると極めて高いのである。こういう理由で持ち主の国籍と船籍とが一致しない船は世界に五万とある。
今夜、この船は可能収容乗客数を極めて下回る、ごく僅かの人間を乗せて、特別クルーズに出る。
乗客の中に、一般客は存在しない。
このクルーズは一般にはその航海情報を開示せず、開催者側から選ばれた乗客のみを乗せることになっているのである。
船の持ち主が個人である場合には、こうしたことは珍しくない。
普段は一般の客船として航海していても、持ち主が個人ならば、そのオーナーが何らかの理由でプライベートクルーズを催したところで、何らおかしなことはなかろう。
そう、今夜のクルーズは、オーナー側が特別に開催した、半ばプライベートクルーズに近い催しなのである。
乗客は、滞在費用は各自負担であるのだが、全て開催者側からの招待を受けた人間たちで構成され、一般の客はリストアップされていない。
その数76名、最高592名を収容可能の船としては異例の少人数である。
使用する客室も、2デッキのみという少なさだった。
乗組員は、船の走行に関わる基本人員が通常と同数、そして、客室デッキの維持、サービスにあたる客室係と清掃係が合わせて80名、それらの統括にあたるチーフスタッフが4名。
さらに、パーティーの進行にあたるイベントスタッフが20名。
乗客よりも乗組員が多いという、一般のクルーズでは考えられない最高級のもてなしを、オーナー側は招待客に提供するのである。
このクルーズの名目上の目玉は、クリスマスの夜を豪華に楽しむというものであった。
招待客の構成も様々で、リストを見れば、所謂上流階級の家の人間の下に芸術家の名が書かれていたりと、そのバラエティ豊かな選別のされ方がわかる。
各界の有力者が集まっていると言えば端的であるかもしれない。
元華族の子息、令嬢はもとより、政治家の二代目、引退したベテラン俳優など、表面だけを見ていれば非常に華やかな顔ぶれだった。
豪華客船で最高のサービスを受けながら、選ばれた人間たちが集まって賑やかにクリスマスのパーティを楽しむ―――それが、このクルーズの表向きのメインイベントであるが、本来の目的は他にある。
―――きらびやかで賑やかなお祭り騒ぎの陰で、重く醜い欲望の応酬が行われようとしている、そんな不穏な空気を微塵も感じさせない明るい船室に、青年はいた。
今度の任務は潜入捜査だった。
カゲトラに与えられた役は、いわゆる豪華客船の船員、さらに正確に言うと客室係である。
白いシャツをぴしりと着込み、黒いスラックスとベストにきっちりとボタンを掛けて、船員室に整列すると、上下を黒いスーツで固めた初老のホテルマネージャーが挨拶と心得を話し始めた。
「おはようございます。皆揃っていますか。
今日明日のクリスマスクルーズには各界のお偉方が多く乗船されます。太平洋のダイヤモンドと呼ばれるこの船の名に恥じないよう、最高のサービスに努めてください。
客室係はシーツに皺一つ残さぬよう、清掃係は塵一つ落とさぬよう、細心の注意を払うように。
また、お客様からのご要望にはできるだけ沿うように。
―――それでは、各ウィングごとのミーティングに入ってください」
よく通る声で、彼はずらりと並んだ乗務員たち全員に聴こえるよう、簡単な挨拶を済ませた。
この場に立つ人間は、年齢も性別もばらばらながら、皆、長く船の客室乗務員として経験を積んできた熟練たちである。
今回のクルーズのために集められた彼らは、厳しい試験と面接を経て採用された優秀な人間ばかりで、どの船に加わっても最高の評価を与えられるクラスの者ばかりだった。
「よろしくお願いします!」
ずらりと並んだ彼ら乗員たちは、ホテルマネージャーの挨拶と心得に揃って返事をかえすと、各々の持ち場別に分かれてミーティングに入った。
カゲトラの持ち場は北翼(north wing)の上部デッキである。
客室係の一人として、彼は十人の中にいた。
02/12/01
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