豆腐屋本舗 お誕生日編



奥さん、夏は冷やしたお豆腐を食べましょう

(↑?)



「みみ美弥っ!」

 慌てて男と距離を取った少年は心配半分、恥ずかしいの半分で、赤くなったり青くなったり大変である。
 一方の男は一つ溜め息を落としただけで落ち着きを取り戻し、愛しい人の妹を助け起こした。

「ごめんなさい……こんなつもりじゃなかったのに」

 兄とその初恋の人を結び付けることに何よりも力を注いでいる少女は、本当にすまなさそうに眉を下げた。

「いえ、こちらこそ驚かせてしまって申し訳ありません。怪我はありませんでしたか?」

 男は軽く首を振り、いつものように微笑んだ。全く気の長い男だ。
 うなだれた妹は流れて顔を隠した髪の毛の陰で、折角手に入りそうだったパトロンをみすみすぶち壊しにしてしまった迂闊さに壮絶な歯噛みをしている。
 やっとのことで顔色と鼓動を落ち着かせた兄は、ちゃぶ台の上に置かれたままになっていたケーキの箱を持ち上げ、

「折角だからお前も食べてけよ。それか、友達の分も含めて持ってくか?」
「え?そんな、お邪魔したくないよ〜」
「邪魔だなんて。是非美弥さんも食べてみてください。そもそも二人では食べ切れません」

 男の目は、照れ屋のお兄さんの緊張を解してくれないとこのままでは進展は望めません!と必死に訴えかけていた。兄は兄で、頼むから二人きりにしないでくれと懇願する眼差しだ。
 そりゃあ喜んでかすがいにはなるけど、私がいたら進むものも進まないでしょうが……と二律背反に苦しみつつ、とりあえずその場の微妙な空気を何とかすることが先決だと考え、頷いた。

 男が少年の誕生日を祝うために買ってきたケーキは市内でも評判の店のもので、年に一度スーパーのクリスマスケーキを―――それも一夜明けて半額に下がったものを―――食べるのが唯一の機会である兄妹は、まるで無垢な子どものように喜んだので、男は両親無しでつつましくもたくましく暮らしている健気な兄妹の境遇に、そっと目頭を押さえたのだった。



「っと、すっかり遅くなっちゃった。友達が心配するからそろそろ行くね。お兄ちゃん!」

 恐らく向こうウン年は口にできないであろうケーキを心行くまで堪能した妹は、時計を見上げて立ち上がり、兄を手招いた。

「何だよ?」 「お客さん用のお布団干してあるから押入から出してきてね。着替えとかも一式まとめてあるから」

 なぜか声をひそめて耳打つ妹に兄も声を落として、

「え、直江泊めるのか?」

 背後をちらりと見やりながら問いかける。

「東川のおじいちゃん、明日はオフくれたんだよ。さすがにここんとこ頑張り過ぎたがらワシも休まにゃあって」

 妹は真剣な眼差しで兄を見上げ、その肩をがっしりと掴んだ。

「だから今日は思う存分直江さんとお話するんだよ。半年分ぐらい喋らないと勿体無いよ」
「お、おう」

 本当なら今日こそ大人の階段を登るんだよ!と発破をかけるところだが、この兄には逆効果だとわかっているので敢えてお喋りレベルで留めておいた。後はこの色男氏の腕前に任せるとしよう。

「じゃあ今度こそ、行ってきます!」
 妹は忘れ物が無いか念入りにチェックしてから意気揚々と出て行った。
後には、そこはかとなくピンク色の薄靄がかかった六畳間に正座して向かい合う男二人が残される。

「えっと……じゃあ直江うち泊まってくか?」

 少年は紅茶の入った湯呑みを包む手元に視線を落としたまま、消え入りそうな声で呟いた。

「いいんですか?突然お邪魔したうえに宿まで……」

 対する男の返事はこれまた大変に遠慮がちだが、その声音の甘さは少年に首を竦めさせた。賑やかな妹が去った六畳間は静か過ぎて、無駄にいい声の男の台詞がダイレクトに鼓膜を撫でてゆく。

「いいって。他に予定があるんでなければこのまま寄ってくれよ。美弥いないしさみしいし」

 少し丸くすぼめられた肩が、素直で淋しがりやな台詞が、男の心臓を打ち抜いた。

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えてご厄介になります」

 厳しい師匠の許でみっちりと仕込まれている豆腐屋見習いは、擦り切れた畳の上に三つ指突いて深々と頭を下げたのだった。


「よし。そしたらまず飯だな。―――あっ!」
「どどどどうしました!?」

 少年の叫び声に驚いて顔を上げた男の前髪にイグサが引っかかっている。土下座する勢いで頭を下げたために付着したらしい。
 しかし自分の思い出した用事に頭が一杯の少年はその異物には気づかず、立ち上がった。

「すっかり忘れてた。オレ直江に食べてもらおうと思っておにぎり作ってたんだ」

 ケーキに夢中で完全に忘れてたぜ、と、コンロの脇に置いたままだった弁当箱を取りに立った少年を、男は感動に打ち震えながら見つめていた。柔らかい茶色の前髪に引っかかったイグサも僅かに遅れて打ち震えている。落ちそうで落ちないそれは、不思議と男本人の視界には入っていないようである。

「完全に冷めちまった。しかも暑かったから傷んでるんじゃ……。勿体ねえ……」

 しょんぼりと肩を落として戻ってきた少年は、金はかけずに愛を詰めた弁当箱をちゃぶ台の上にコトリと置いた。

「そんな、傷んだりしませんよ。私のために作ってくれたなら食べさせてください」

 弁当箱の側面に両手を添えてうなだれる少年の手に男が手のひらを重ねた。
 豆腐屋の性で常にひんやりとしている大きな手のひらに包まれ、少年がびくりと跳ねる。

「折角あなたが作ってくれたものを、捨てるなんて言わないで。私は丈夫ですから、万が一傷んでいても問題ありません。大体豆腐だって、豆が腐ると書くぐらいです。数時間前に作ったおにぎりなんてできたてみたいなものですよ」

 ある種、気合いたっぷりの口説き文句のつもりが、少年の中の期待とは違う部分をつついたらしい。

「豆腐は名前が間違ってんだよ。納豆と入れ替わっちまってるって聞いたことあるぞ」

 そこでへこたれないのが直江という男だ。

「なるほど『豆を納める』ね……納豆は確かに『腐った豆』ですし。高耶さんは博識ですね」
「人から聞いた話だって」
「ちゃんと覚えているんだからあなたの知識ですよ」
「そうかな」
「そうですとも」

 弁当箱の側面で手を重ねたままの豆知識講座である。
 二人がこんなに長く手を触れ合っていたのは実のところ初めてのことだった。特に意識しないでいるから少年の照れも抑えられているのだろう。
 非常に回りくどい進み方ではあるが、方向としては良い流れに乗っている。

 あとは何とかして想いを伝えるのだ。
 薔薇もケーキもやり過ごしてしまったが、きっとチャンスはどこかにある。

「ねえ高耶さん」

 そのきっかけを追い求めて言葉を続けようとした男だったが、名を呼ばれてようやく顔を上げた少年の目は相手の前髪に釘付けとなった。

「……?高耶さん?」
「動くな」

 どこか一点に視線を合わせた少年は男の手のひらから自分の手を抜き取ったので、相手は少しショックを受けた様子である。
 だが、少年は離れるのではなく、ちゃぶ台の上に身を乗り出して手を伸ばしてきた。
 照れ屋の彼が自らアプローチとは!と瞠目する男の額に少年の手が伸ばされ、慎重に何かをつまみ上げる。

「?」
「取れた。これ、さっきくっついたんだな」

 少年の指に挟まれているのは、擦り切れた畳から剥がれたらしきイグサの欠片だった。
 ここまでの少年の行動が恋のアプローチではなかったと気づいた男ががっくりしたかというと、そうではない。急接近したこの距離を最大限に利用すべく、彼は至近距離にある相手の瞳に向かって微笑みかけた。

「ありがとう」
「いや、別にそんな感謝されるようなことじゃ……」

 イグサを指に挟んだままの手をそっと包み込まれて、少年は耳まで赤くなる。

「いえ、このごみのことだけではなくて、お弁当を作ってくれたあなたの優しさも、宿を貸してくれる親切も、あなたの行動の何もかもが」

 男のただでさえ見とれるような顔が、目の前の存在に対してこの上も無く甘く微笑みかける。
 完全に魅入られて瞬きも忘れた少年の視界一杯に、すいこまれそうな綺麗な琥珀の瞳が広がって、
―――柔らかくて温かいものが唇に触れた。

 それはほんの一瞬のことで、少年が瞬きしたときには相手の顔は先ほどの位置まで戻っている。

「……直江?」
「高耶さん、師匠のお豆腐好きですよね?」

 事態を把握しかねて僅かに首を傾げた少年に、男は微笑みをそのままに口を開いた。

「え、うん、好きだ」

 脈絡の無い話に戸惑いつつも少年は頷く。

「師匠のことも好きですよね?」
「うん。好きだな」

 誘導尋問のような問いかけに素直に頷く少年である。

―――そして男は核心的な台詞を口にした。

「じゃあ、私が一人前になったら、私のことも好きになってくれる?」

 先ほどまでの流れで、うん、と鵜呑みにしそうになった少年は、台詞の意味が脳内で理解された瞬間、かちんと固まってしまった。

「私が師匠のような美味しいお豆腐を作れるようになったら、私のことを好きになってくれますか」

 プリザーブドフラワーならぬプリザーブド純情少年と化した高耶を、降り注ぐ太陽のような熱い眼差しがとろけさせてゆく。
 思いもよらない台詞に固まった顔がゆっくりと解凍されるにつれ、少年の頬はリンゴのように赤くなっていった。

「高耶さん……」

 その頬を男の手のひらが包む。すぐ近くに固定された双眸に見つめられて、少年の喉はますます干上がってゆく。

「……急にこんなこと、驚いてしまいましたか」

 全身全霊をかけて心の底から気持ちを伝えているのに一言も返してくれない相手に、男の瞳は翳りを帯びた。

「……そんなこと言われても迷惑ですよね。すみません」
「や、ちが、そうじゃなくって!」

 フッと逸らされた瞳にようやく呪縛を解かれ、少年は慌てて男の手首を掴む。

「一人前になるとかならないとかじゃなくて、豆腐が美味いからとかじゃなくて、一番最初に直江がこの団地にチャリ引きずって来たときからずっと、最初からオレは」

「ずっとずっと ―――うっ」

 長い間胸のうちで育んできた想いを一気に溢れさせた少年は、息をするのも忘れて言葉を紡ぎ続けたので、とうとう酸欠状態に陥ってしまった。

「た、高耶さん」

 男は慌てふためいて、先ほどとは別の意味で赤くなった少年の顔を両手で挟み込む。
 少年はすーはーと何度か深呼吸をし、息が落ち着くと恥ずかしそうに目を伏せた。純情な彼にとっては、弁当箱の上で手のひらを重ねただけでも心臓が止まりそうなほどドキドキしたのに、さらに息遣いが聞こえるほどの至近距離で見つめられたり、そのうえ―――ほんの一瞬ではあったけれどキスまでされて、極めつけに『好きになってくれますか』と囁かれて、何が何だかわからないほどの衝撃とドキドキが胸に渦巻いているのだ。
 ややあって、おずおずと見上げてきた少年の黒い瞳には、嬉しくって恥ずかしくってドキドキして言葉にならないというハリケーン級の戸惑いが見て取れた。

 男はそんな相手の心中を過たず見て取り、顔じゅうに微笑みを広がらせた。

「嬉しい」

 そっと包み込んだ頬に顔を寄せ、ぎゅっと目をつぶった少年のほんのりと赤い目尻に唇を落とす。
 ひゃ、と声にならない声を上げて純情少年はますます強く目をつぶり、男は今度はその瞼の上にキスを落とした。ゆっくりと、何度も。
 柔らかくて温かくて優しいその感触に、少年はがちがちになっていた肩を緩めていった。

「嬉しいです……高耶さん」

 男は中学生並みのスローで懐かしい恋のステップでとうとうここまで漕ぎ着けたことに殆ど感動していた。
 少年は具体的な言葉を紡いではくれなかったが、彼が精一杯の想いを抱えて相手を見上げたときに全てがわかった。どんな言葉よりも雄弁な瞳が訴えかけてくるのは、男と同じ恋情だ。

 純情で、健気で、優しくてよく気が付いて、妹思いで、兄妹二人きりの生活を懸命に生きているこの少年は―――確かに男に恋している。

 今はそれがわかっただけで最高に幸せな男なのだった。

「高耶さん」

 白い恋人と目の前にいる純情少年に全ての愛を捧げている豆腐屋見習いは、決意も露に少年の手を握り締めた。

「は、はい」

 少年は男の真剣な声を耳にして目を開け、ちゃぶ台を挟んで中腰で互いの手を握り合うという甚だ無理のある姿勢で、一生懸命に相手に向き合った。

「俺は誓います。必ずや日本一の豆腐屋になって、日本の全ての食卓に豆腐が並ぶ日まで決してくじけたりしない」

「お、おう」

 少年は男の真剣そのものの瞳に射抜かれ、その真摯な色にぽーっと見とれている。

「そして」

 男は握り合った手を高く持ち上げて、天を仰ぎながら高らかに宣言した。

「そして、その時こそあなたの恋人に立候補します!」


*


 純情すぎるハートがドキドキの許容量を越えてしまい、あえなく人事不省に陥った少年を、男は甲斐甲斐しく客用布団(少年の妹が良く陽に当てて準備しておいた心づくしの品だ)に寝かしつけ、自らはその寝顔を肴に宝箱のようなおにぎり弁当を堪能したのだった。
 彼らは知らない。
 男の恋人立候補宣言を洩れ聞いた上下階及び両隣さんらが、
『あのしっかりもので健気な美弥ちゃんにとうとう立派なムコさんがついたらしい。めでたや!』
と万歳三唱していたことを。
 それ以降毎日のように入れ替わり立ち替わり呼び鈴が鳴り響き、そのたびに満面の笑顔を浮かべたご近所さんがタッパーに入れた赤飯を押し付けて、
『あの、これは一体……?』
と顔じゅうにハテナマークを浮かべて立ち尽くす兄妹の肩を意味ありげに叩いて去ることを。
彼らには知る由も無かった。
 (ただし毎日届けられる赤飯のお陰で食費が浮くことに関してはとりあえず喜ぶ二人である。)




 東川豆腐店のお豆腐に惚れて脱サラし、カミナリ親爺を地で行くお師匠にビシバシしごかれながらも愛しの白い直方体の子どもたちとのスイートな生活に夢見心地な俳優ばりのイイ男と、そんなキラキラした男に一目惚れに惚れこんで、週に二度の豆腐行商日を指折り数える少年の、ドキドキわくわくな片思い×2事情、大人の本気編。

 これにて、一旦は閉幕となります〜


08/09/03
中編から一ヶ月も間が開いてしまいました。申し訳ありません!

快挙!初ちゅー達成です!!
今回は手も握っているし、花束越しに抱擁も交わしたし、さらに瞼にチュウまでv
純情少年も二十歳を迎えたので、豆腐屋見習いも少しは(大人の)本気を出したようです。
高耶さんは例によって心臓がバクハツしてしまいました(笑)
きっと翌朝もすぐ隣に美貌の寝顔を見つけて2メートルぐらい飛び上がったに違いありません。
一方、恋人に立候補します宣言を果たした男はきっと翌日はあまりのトリップぶりにお師匠にゲンコを落とされたに違いなく。
あっついあっつい真夏の恋模様なのでした。

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Happy birthday, TAKAYA !!

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