ラッシュ・アワー




思えば平凡な人生を送ってきた。
でたらめに石を投げれば当たる程度に普通な家庭に生まれ、市立の幼稚園に行き、地区別に割り当てられた小中学校を経て、そこそこのレベルの公立高校に入って、大学に四年間通って、就職。
何か同輩の人間と違う点と言えば、平均身長を二十センチ近く上回っていることくらいだろうか。

たった今この目の前にある何気ない昼間のプラットフォームの様子と同じで、絵に描いたような平凡な人生を送ってきた。
このまま、数年後には時の流れに流されるようにして結婚し、二人くらい子どもが生まれて、家族のためという大義名分を背負って働き続けて、退職したとたんに老け込んで、ぼおっと居間にでも座って、思い返せば山も谷もない人生だったなと、平凡こそが幸せなのだと、自分に言い聞かせながら死を待つ老人になるのだろう。

その、どこにでもある平凡が、驚天動地の大転換を迎えるなんて―――

想像すらできなかった。


それは突然のことだった。
見慣れた昼間のプラットフォームで、ベンチに腰掛けて電車を待っていた。
聞きなれた録音音声の間延びしたアナウンスが流れ、やれやれ電車が来るなと思って読みかけの文庫本をぱたりと閉じた―――そのとき。

フォームに滑り込んだ電車は、すし詰めのぎゅうぎゅうだった。

(何だあれは)

まことにまったりした昼下がり、三時のおやつの少し手前というこの時間。
本来、この時間帯の乗車率はどんなに多くとも50%といったところ。
それなのに、なぜこの電車は乗車率200%強の、まるで朝晩のラッシュアワーの様相を呈しているのか。
扉のガラスが人いきれで曇っている。その曇ったガラスに、乗客の顔や衣服が張り付いている―――正確には、内部からの圧力によって押し付けられているのだが。
その混雑は扉付近に限ったことではなく、座席側にも人、人、人……。
吊り革を持たなくても転ぶ心配がない、という次元の話ではない。
まるで、人間をネタに、車両を箱に見立ててこしらえた押し鮨である。もし自分があの中にいたら長身ゆえに頭だけは助かるだろうが、大抵の人間は呼吸もままならないほどぎゅうぎゅうに圧縮されているのではないだろうか。

(こんな状態で扉が開いたらケガ人が出るぞ)

数年前に起こったドミノ事故をふと思い出して寒気を覚えたとき、扉はいつものようにのんびりと開き始めた。

プシューッ……

(うわっ)

七両編成の車両の扉という扉が一斉に開き、まるで堰き止められていたダムから排水が始まったかのように、怒涛の乗客流が発生した。
乗客という名の黒い排水は恐ろしい勢いでプラットフォームを舐め尽してしまった。電車を待っていた人々もあっという間にその流れに飲み込まれてしまう。
自分もフォームで突っ立っていたら飲み込まれていただろう。想像すると恐ろしくなって、思わずベンチの上へ上がった。

(いったい何が起こったんだ)

巣から這い出てくるアリのように尽きることなく乗客を排出し続ける扉を見やり、この有り得ない光景を現実にした何かについて想像をめぐらせる。

なぜ、普段ならば夕方五時以降になって起こるはずの、通勤客の一斉ラッシュが、真昼間に起こっているのか。
何か、急ぎ慌てて帰宅―――それも、勤めに出ている人間という人間が全てだ―――しなければならないような、とてつもないことが日本に起こったのだろうか。

たとえば、中東問題に絡んでとうとう日本にも戦火が及ぶと政府が緊急宣言したとか。
それは、絶対に有り得ないとは言い切れない問題だ。既にこの国は他の幾つかの国と並んで名指しされているのだから。
自分がぼんやりと駅のベンチで文庫本を読んでいる間に、社では上を下への大騒ぎになっていたのかもしれない。政府の発表を受けてから、社から営業の外回りに出ている人間たちにまで連絡が行き渡るほどの時間は経っていないのだとしたら。一先ずその場にいる人間を緊急帰宅させたのだとしたら。

たとえどんなに荒唐無稽な話であれ、実際に起こってしまえばそれが『現実』なのだ。
もしついさっきベンチに座って文庫本を読んでいた自分が急性心不全で倒れたとしたら、その一秒前までは『ありえない想像』だったその事態がまさに『現実』になるのである。同じことだ。
日本は戦争放棄した国だと思いこんで生きていても、今まさに戦争が勃発したら、それは『現実』になる。

(何ということだ)

思わず背筋に冷たい汗が流れた。
これまで何と平凡な人生を送ってきたのだろう、などと世迷言をぬかした罰が当たったのかもしれない。

足元から血の気がひく思いを生まれて初めて味わっていると、ふと、黒い排水の中にある一点の澱みに目が留まった。

(危ない)

危うく波に押しつぶされそうになっている人がいる。足元がふらふらとして、ひどく具合が悪そうだ。
このまま放っておいたら踏み潰されてしまう、と心の中で呟いたとき、脚は勝手にベンチを下りていた。

ともすれば恐ろしくて気が萎えそうな怒涛の流れに対抗して掻き分けながら、その人のもとを目指す。
やっと捕まえて、腰を抱くようにしてベンチまで戻るのが、精一杯だった。
その後は相手を抱きしめて周りから庇い、嵐の過ぎ去るのを待っていた。



ようやく黒い流れが去った後、抱きすくめていた腕を緩め、あらためてその顔を見た。
それはまだ若い、青年だった。


「一体どうなっているんでしょうか……」

「え?」

「何かとんでもないことが起こったのでしょう?私はさっきまでこのフォームで電車待ちをしていたので、何も知らないんですが。こんな時間に突然にたくさんの人間が帰宅するなんて、一体何が起こったのでしょうか。あなたは随分具合が悪そうでしたし、よほど大変なことが起こったのでは……?」

「……はあ !? 」

しばらくの沈黙ののち、嵐の去ったプラットフォームには、青年の素っ頓狂な声が響いた。



種は明かされてみると、ばかばかしくなるくらい何でもないことだった。


「昼過ぎに起こった列車事故で、この一つ前の駅までずっと、乗客が堰き止められていたんです」

それであんなに乗客の数が多かったのか。
だが、こんな昼間なのになぜスーツの人間ばかりだったのだろう。おかしいではないか。

「そのうえ、何だか今日はどこの会社も学校も一斉に始業式だったらしくて」

それでスーツ姿だったのか。
でも、なぜあんなにも殺気立っていたのだろう。

「しかも、馬鹿なヤツがすし詰めの電車の中で叫んだんです。こんな密室空間でテロでも起こったら一巻の終わりだって」

何とまあ人騒がせな。

「で、オレは人込みが苦手で、気分が悪くて」

気持ち悪そうだったのはそのせいか。

「ご迷惑をかけてすみませんでした」

よく見ると、何だか可愛い子だな。いまどき髪が真っ黒で、きちんと敬語も使えて。
それに、きれいな目をしてる。


おや、何か言いたそうだ。ためらいがちな瞬きが微笑みを誘う。


「あの……しばらく電車来ないと思うし、駅の喫茶店にでも入りませんか?お礼にお茶でもご馳走させてください」




今日も何でもない出来事があった。
よくある事故に、始業式、無責任な言葉、何でもないことばかりがたくさん集まって、真昼のラッシュアワーを引き起こした。
とんでもないことが起こったかと思ったけれど、なんでもないこと。
これまで知らなかった人と知り合いになっただけ。
ただそれだけのこと。

そして、今日からは、きっと―――

人生のラッシュアワー。





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