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母と別れて以来二年も少年が一人きりで暮らしてきた家に、新しい住人を迎えた初めての夕食は、二人でそれぞれ拵えた品を並べての賑やかなものになった。
じゃがいもと玉ねぎの味噌汁は少年の作品で、メインの魚は男が三枚におろして刺身にし、アラはことこと煮込んだ。ごくシンプルな和食が並んだわけだが、いずれもなかなかの味だった。
「どう見たって洋食が似合うくせに、和食が上手いんだな、先生」
アラを一切れ口に入れた少年が、その味を堪能しながら感心したように言うと、
「直江です。そう言われても、俺は生粋の日本人なんですから」
どうしてもその名で呼ばれたいらしい男が、こくりと頷く。
「……ご先祖に外国人いたりしないのか?」
少年は刺身をつまみ上げた箸を止めてぱちくりと瞬きした。柔らかい茶色の髪と澄んだ琥珀色の瞳で欧州風の顔立ちをした相手は、あからさまに不思議そうな表情をしている少年に苦笑して首を振る。
「知ってる限りいません。この目と髪は父方の血らしくて、今の家は皆黒いですよ。母方の伯父の家なんですが」
「へえ。オレんとこは親父が一人っ子でお袋には弟がいる」
新鮮な鯛の刺身の噛み応えに満足そうな笑みを浮かべた少年は、茶で喉を潤してから頷いた。
「あなたの保護者になっている方ですね。年の半分ぐらいは海外にいらっしゃるとか」
「ああ。たまにしか会わないな」
少年は淡々と頷いたが、その表情は柔らかで、相手はふっと目元を和ませた。
「そうですか。でも、良い方のようですね」
「そうだな。自分に子どもがいないせいか、何かと気にかけてくれてる。二人しか残っていない肉親だし」
何を思い出しているのか、少年は少し照れたような顔だ。
「それは大切な相手ですね。俺は今の家族は大所帯でした。今はもう皆独立していますが、兄が二人に姉が一人なんです。甥姪は合わせて五人。正月などはちょっとした大宴会ですよ」
こちらもその大宴会の喧騒を思い出してか、苦笑と微笑が入り混じったような表情の男である。
「へえ、四人兄弟か。直江が一番下なんだ?」
「ええ、だいぶ歳が離れていまして、すぐ上の兄でも一回り上なんです。橘の家に引き取られた時はもうみんな大学生で、大人にしか見えなかったですね。俺はあのとおり小さかったし」
「さぞかし可愛がられたんじゃねーの。オレから見ても可愛いし」
小学校時代のアルバムの中にいた天使のような姿を思い浮かべて笑う少年に、
「いえ、相当気にかけてくれていたとは思いますが、何しろあんなでしたから。口もきかない、部屋から出ない、辛うじて食事だけはとらされていましたが、とにかく塞ぎこんでいましたから、兄たちは気を使ってあまり踏み込んではきませんでした。佐和先生に連れられて外に出るようになってからでしたよ。構い倒されるようになったのは」
少し瞳を陰らせた相手だが、最後には何かを思い出しているように苦笑した。高校生の少年から見れば大人でも、男はずっと年上の兄姉に囲まれて育った末っ子なのである。
「そうか。いいお兄さんたちなんだな」
「ええ。良くできた人たちです。器が大きすぎて時々困らされるのが問題ですが」
困った顔もまた格別に愛らしい犬属性の魅力に抗えず、少年はわざわざ箸を置いて男の髪に手を伸ばした。
「へえ……直江が困らされるってすごそうだな」
よしよしとばかりに頭を撫でられても、構われて育った末っ子には別段驚くことではないようだ。尤も彼とて自分よりも年下の相手に頭を撫でられるのは初めてのことだったのだが。
「ええもう。あの駆け落ち未遂の時だって、帰ってきた俺の肩を叩いて、良くやった。義明。の一言ですからね。高校生が有り金かき集めて身一つで家出したのに、その一言でお咎め無し」
「目を覚ませとか忘れろとか言わないんだ?」
柔らかい髪をひとしきり撫でて満足し、食事に戻った少年は、途中まで運びかけた米を宙で静止させた。
かわいい弟(高校生)が一回り以上も年上のコブつき寡婦に走ったというのに、何も言わないというのはむしろ異常ではないだろうか―――と、真っ黒な瞳が言っている。
「それが全く。人道的にまずいこと以外はたぶん何も言わないと思います」
男はその綺麗な黒い目に見とれながら、肩をすくめた。そんな大仰な仕草でさえもすんなりと似合ってしまうのは、この男の容姿の為せる業である。
「……あんまり普通じゃない人たちだな」
何となく食欲を削がれてしまった様子で、少年は再び箸を置いてしまった。腕を組んでうーんと唸っている姿はごく当たり前の高校生で、対する男はその稚さに微笑んだ。
「俺が『普通』ではありませんでしたからね。たぶん、まともに口を利いて健康ならば万々歳、くらいのつもりかもしれません。
―――ああそれから、橘の田舎は寺なんです。達観しているのはそういう事情も影響しているかもしれませんね」
男も箸を置いて、少年の方へ少し身を乗り出した。何かの種明かしをするようににこりと笑いかけられて、その台詞の内容に相手は目を丸くする。
「寺!意外すぎる……」
和食が得意というだけでも似合わないのに、この容姿で家が寺とは。
「俺も一通りは修めていますよ。四年の時に転校したのは、父が寺を継ぐのでそちらに移ったんです」
目と口を縦方向に開いて驚愕している少年の一方で、自分の容姿に頓着のない男は涼しい顔をして頷いている。
「信じられねぇ……この顔で坊さんかよ」
首を振り振り唸る少年に、男は初めて眉尻を下げた。
「そんなに気に入りませんか?この顔」
「うわ、違うって!そんな悲しそうな顔すんなよ。褒めてんのに」
少年が慌てて手を振り否定すると、相手の顔がぱっと輝く。
「そうなんですか?気に入っていただけたなら嬉しいんですが」
「気に入らない顔なら一緒に住もうなんて言わないって」
―――本当は顔立ちではなく、全体的に犬っぽいところが好きなのだが。
本人に向かってそんなことは言えない。
当の男は少年の台詞に顔を綻ばせた。目元や唇だけではなく顔全体を。容赦ないくらいにっこりと美しく微笑まれて、少年は些か居心地の悪い思いをした。
―――この破格なまでに整った顔で笑顔の大盤振る舞いをされると心臓に悪いのだ。あの犬みたいなちょっと困った笑顔なら可愛いと思うぐらいの余裕を保っていられるが、通常状態で満面の笑みを向けられると迫力負けしてしまう。
そんな少年の戸惑いをよそに、男はにこにこし続けている。構ってもらって嬉しくてたまらない犬、の筈が、笑顔が美しすぎて少年の目には犬に見えなかった。
「……食おうぜ。にらめっこしてたってしょうがない」
いつまで経っても食事に戻る気配のない男に先に音を上げたのは少年だった。男は素直にはいと言って箸を手に取った。その流れるような動作に暫し目を奪われた少年は、相手の育ちの良さに改めて感服した。
あんなつらい過去があるなんて信じがたいほど、目の前の男は柔和で上品だ。余程大事に育てられてきたのだろうと窺わせる。きっと今の家族が温かい人たちばかりなのだろう。
「高耶さんは綺麗に食べますね」
こちらも箸を持って食事を再開した少年を見つめていた男が、ふと少年の考えたことと似た台詞を口にした。
「そりゃ育ち盛りだからな」
少年はその台詞を、『よく食べる』という意味に取り、うんうんと頷く。だが男の意図は別のところにあったようで、
「そうではなくて、箸の使い方が。佐和先生にしっかり仕込まれたんでしょうね」
「直江のほうが綺麗だと思うけど。お袋は確かに厳しかったな。物の食べ方は一番肝心なところだから、どこに出ても恥ずかしくないように身に付けておきなさいってさ」
行儀良く口の中身を飲み込んでから返事をした少年に、男の目が細められる。
「子どもの頃はよくわからなかったでしょうが、ある程度歳を重ねるとわかってくるでしょう。きちんとした食べ方は料理を作ってくれた人と、食事を共にする相手に対する礼儀ですからね」
教師らしい物言いにも少年は反発をおぼえることはなく、素直に頷いた。
「あと生産者の皆さんにもな。うちは田舎が農家だったから、米粒一つでも粗末にするなんてありえねえ」
「いい心がけです。何に対しても感謝の気持ちを忘れない。さすが高耶さんだ」
男は心底嬉しそうに笑みを浮かべた。自分が育てた人間を誇るような、満足げな溜め息をついた彼に、相手は首を捻る。
「それを言うなら『さすが佐和先生の息子』だろ」
少年は目の前の男が目を細めて自分を見つめてくるのは、その面影の向こうに母親を見ているのだと思っているから、男の台詞に素直には頷けない。
しかし、相手は微笑んだまま軽く首を振って、
「いいえ、あなたは高耶さんですから。佐和先生とは別の、一人の人間です。佐和先生の教えがどうあれ、それを実行しようとしているのはあなたなのだから」
と眼差しを一層柔らかくした。
「なんか難しいこと言われてるな」
「とにかく、俺は佐和先生とは関係なくあなたの人となりが好きですよ。そういうことです」
何だかすっきりしない、という表情で首を左右に曲げた少年に、男は日本人離れした気障な台詞をさらりと言いのけて、とろけるような笑顔で微笑みかける。
「そんなこと言っても何も出ないぞ?」
「本当のことを言っただけです」
男はにっこりと美しく微笑んでいる。少年はうぐ、と呼吸を詰まらせて慌てて茶を流し込んだ。
―――相手は何のてらいもなく本気で言っているらしい。騙すとかからかうとかそんな芸当のできる男じゃない。善良な犬らしく茶色の瞳をきらきらさせて見つめてくる様子は冗談で流すという反応を許してはくれない。
はあ、と深いため息をついて、少年は頷いた。
「わかった。ありがと」
真面目に受け止めて応えるよりほかに選択肢はなかった。
そんな奇妙な空気を含みながらも、初めての夕食は概ね和やかに過ぎていったのだった。
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